月蝕と青花――月に寄せる物語1

 

 

 今夜は月蝕らしい。

 

 月が蝕まれる晩に、浴槽に薔薇の花びらを散らした。『青い花』という物語の著者からその名を冠した花なのだと教えてくれたのはあのひとだった。幻の青い花。……ノヴァーリス。「青」という色は無限をあらわす色のように思わないか、とあのひとがいった。ぼくはあの作家の書きたかった「青い花」とは青薔薇のことだと思っているんだ。それは現実には存在しえない奇跡。ほんとうのブルーローズはこの世にはあらわれていない。少なくとも、いまはまだ。それなのにね、不思議なことだ。青い薔薇の花言葉は、すでに用意されているんだよ。あててみて、どんな言葉を、ひとびとはあの花にたくしたと思う?

 

 「夢」とわたしは口のなかであどけない声で呟いた自分のことを覚えている。

 「夢?」

 「そう、夢。睡魔にいざなわれたさきの夢では、現実を塗り替えることはできない。それは薄絹でおおわれた真夜中の、ひそやかな祈りみたいなものだから」

 

 そんなふうにいうわたしを、あのひとは奇妙なものを見るような眼差しをむけた。その視線を意識しながら太陽を仰ぐ目つきでわたしは笑ってみせた。

 

 「夢。だから破滅、だから魔物を暗示する花なのかもしれないわ」

 「きみのいうとおりかもしれないね。青薔薇の花言葉は《不可能》、そして……」

 

 神の祝福というんだよ、とつづけたあのひとの声が、ヴィヴラートかかった低音があのときのまま脳裏に浮遊している。神の祝福、とわたしはその声にしたがうように反復した。それはあからさまに人間の欲望があらわれた花言葉だと、耳にした瞬間思った記憶が、わたしのなかをあらためて巡った。かのバベルの塔ではないけれど、青薔薇の研究は人間の傲慢を色濃くあらわしているようにわたしには思える。それを「罰」として怖れる罪悪感が、「祝福」などという思考につながっていることは明白だ。

 

 あのひとがわたしにはじめてノヴァリースという青い花の名前を教えてくれたとき、あのひとが手ずから育てたあの青薔薇を一輪、わたしの誕生日に贈ってくれたとき、わたしは十四歳だった。あれからわたしのなかの時間は一世紀近く経過しているような気がする。けれどもまだ十年、もう十年。一週間、ひと月、一年、十年。そして百年。わたしはいつも永遠を、数で縮めてしまう。そのような記号に、なんの意味もないことを、わたしは知っている。ただあれから樹が十の年輪の輪っかを生みだす、それだけの日々が過ぎたという、それだけのこと。そして今日、その輪がまたひとつ増える。ただそれだけのこと。

 

 誕生日の夜に湯舟に浮かんだ夜明けの色をした薔薇は、わたしがはじめて土から育ててやっと花をつけた一輪で、それがわたしの手から咲いたことは、まさに「奇跡」といってもいい出来事だったかもしれない。過去の郷愁の結晶のようにひらいた花を自らの指で摘み、そして花びらを散らした。バスルームの天井にある窓から見える月が蝕まれている。今夜が月蝕であることは知っていた。この現象をブルームーンと呼んでいるニュースを朝から耳にしていた。もしかしたら夜が青く輝くのかしらとわずかに馬鹿げた期待を抱いたけれど、世界はいつもどおりで、夜も変わらず暗黒の顔をしてわたしのまえに出現した。

 

 もし夜が青かったら、このノヴァーリスも「ほんとうの」ブルーローズになるかもしれなかったのに。研究ではなく、そのようにして生まれた青薔薇こそ、「奇跡」であり、「神の祝福」ではないだろうか。

 

 けれども奇跡も祝福も、わたしに訪れることはない。

 もう二度と。

 これはわたしの「青い罰」なのだろう。あのひとという「太陽」に近づきすぎてしまったわたしの。せめてあの日々が、わたしのさやかな光になることを祈って、薔薇の亡骸を浴槽に沈める。

 

 

 

 いしいまこさんの美しい作品に、指が思いつくままに文章を綴らせていただきました。真実の棘の浄化をもつ彼女に捧げます。

 

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