ひかり輝く、やみに昏く

 

 

 かぐや姫のことは、もういろいろなところでお話しているので、その反復しかできないことを承知しつつ、わたしはどうしてもあの月の姫のことを書かずにはいられない。きっと繰り返し話していることと同様のことなので、もう充分だというかたは読み流してもらいたいのです。これはわたしがわたしのために綴る忘備録なのだから。 

 わたしはかぐや姫というひとを、「誰よりも美しく醜い女」であると子供のころから思っていて、その認識はいまも変わることがない。

 

 「わたしのように醜いものが、相手の本心も知らずにうっかり信じて結ばれたなら、あとには不幸が待っているだけです」

 

 七歳の誕生日に贈られたかぐや姫の絵本のなかに書かれてあったその言葉を、いまも忘れることができないのだ。しかしあの書物はもうわたしのもとから失われてしまった。確認するすべもなく、もしかしたらわたしの頭がこしらえた空想のせりふである可能性もなきにしもあらずであることがおそろしいところだ。

 しかしわたしはやっぱり、かぐや姫は誰より「美しく」そして「醜い」女であるのだと感じずにいられない。そして彼女はおのれの醜さに、鋭利なほどに自覚的だったのだと、どうしても思ってしまうのだ。

 
 自分の醜さを彼女はよく知っている。だから誰とも結ばれずに月に還る。

 

 わたしもわたし以上に醜い人間はいないと思いながら幼少期を過ごしたから、かぐや姫に共鳴を感じたことを、よく覚えている。なよ竹の姫と自分がおなじであるなどと自惚れるつもりはない。ただ事実としてわたしは自分を「醜い」と思っていた。それだけのことだ。しかし醜さと美しさにどれほどの違いがあるのだろうと、中学生のころには考えていた。

  光のあるところに、かならず影がある。光がつよいほどに、影は濃くなる。かぐや姫は竹のなかで「光っている」ところを翁に発見された。誰よりも美しいということは、「誰よりもひかりかがやく」ということだ。そして「ひかりかがやく子」だから、かぐや姫。そのため当然、彼女の影もまた濃い。飛びぬけて美しいということと、飛びぬけて醜いということは、突出する方向が異なるだけでおなじこと。どちらも「普通」には生きることができない。「普通」の「人間」としての扱いを受けない。その扱いに「天」と「地」の差はあれど、どちらもおなじように「人間」であることを「拒まれた者」

 

 かぐや姫は誰よりも美しく、だから醜い女。彼女も自分でそのことがよくわかっている。だから「わたしのように醜い者が」と本心からいっている。世界から拒まれた自分を。そのために彼女は自分も世界を「拒む」しかなかった。そして月に還ることで拒絶をあらわしてみせたのだ。

 

 わたしは以前、かぐや姫についてこんなこんなことを書きました。

 

 かぐや姫――『竹取物語』の登場人物。月人。
すべてを拒む少女。

 世界も時間も男も、彼女にとっては自分という存在のあえかを葬る者でしかなかった。彼らの手によって「死」を迎え、少女という一瞬が亡骸となり幻と消えるそのときを、世界であり時間であり男である「他者」たちは待ちかまえている。そうであったからこそ、彼女はおのれのなかに広がる宇宙空間の夢に逃げるしかなかった。自分以外の何者の手によってもその「夢」を殺められることを拒絶し、かぐやは自らの宇宙に輝く月へと還っていった。現実の指先が夢を侵すそのまえに、月という「死」を彼女は選んだ。すべてを拒み、少女のままで。