桜の花びら

 

 桜というと幼少時代から、わたしにとっては「妖しの花」でした。

 

 桜という花は春という季節が吹く霞がかった息のなかに出現する蜃気楼のようなものだとずっと感じていました。それを「幽霊」といいかえてもいい。そう、わたしはずっと桜を春にだけ出没する幽霊のように思っていたのでした。

 

 桜の樹の下には死体が埋まっているっていうじゃない。だから桜そのものが、春のこの時期だけに出没する幽霊みたいなものよ。(拙作『貝殻の肖像』より)

 

 

 車を降りてトンネルを形成するように咲き誇る桜の下を歩いているとき、ぼくにはその花が夜空に引っかかっている幽霊の衣のように見えた。しかし尖った他人の顎のような月のもと、暗闇のなかでかすかに発光している桜は、ぼくに幽玄という言葉の意味を思いださせるには充分すぎるほどだった。桜に心を奪われるのと、魂を失うほどの恋をするのと、そのあいだにどれくらいの違いがあるのだろうとぼくは考えたが、それはつまり、どちらもぼくとは別世界のところにある、美しくて恐ろしいものだったからだ。(同上)

 

 あの薄紅色の花はいつも、わたしの憂鬱と期待の象徴だったような気がしています。「春」という季節を思い浮かべるときこの国に生まれた者であるならば、その景色のなかに桜の花を欠かすことはできない。それはある種の呪いのように。そして春はあたらしいものに出逢い、ふるいものを手放す季節です。桜のあの刹那的な美しさは、どのようなものにも終わりがくることへの暗示をわたしたちに囁きかけているように思えてならず、古いものには惜別を、新しいものには無常を感じないではいられないのです。

 

 あのころ、桜の花が目に入るたびにたまらなくなりました。わたしの有毒ガスみたいな感情を吸いこんでむくむくと膨れあがっている、あの白い雲みたいな花の群れ。そこから散る花びらは少女の爪のようでした。まだマニキュアを知らない、薄紅色の爪。一瞬の跳躍。あえかな飛翔。そして《女》になるさだめに生まれたわたしたち。たまらなくなった。春に桜を見るたびに、わたしはわたしの刹那を突きつけられているみたいで。

 

 あれから何年も過ぎて、桜を眺めても特別な感情が湧かなくなったとき、わたしは大人になったことを感じました。あの花を好きでも嫌いでもない。ただ春を好きだと、桜を美しいと心からいえるひとたちのことを、わたしはこの季節がめぐってくるたびに愛しく眩しいと思っていました。

 

 そのようにいつも春は過ぎてゆく。

 春の日は過ぎゆく。わたしをここに遺して。

 

 しかし今年の桜はいままでとはどこか異なるような気がしました。半透明の白い花びらを、わたしはもう少女の爪だとは思わない。それならなんだろうとこの春ずっと考えているのだけれども、答えはまだでていないのです。ただ今年わたしが見た桜は、「妖しい」ものではなく、ひたすらに「清らか」なものでした。妖はつねに清と表裏一体。そのふたつが美しいものに「魔」を棲まわせる。わたしが桜のなかに清らかさを魅ることができたのは嬉しいことです。わたしはいまおおきな変化のなかにいることを自覚しているのですが、桜に感じたこの気持ちも、それゆえのものなのかもしれません。

 

 やっぱり春の日はこうして過ぎゆくけれども。

 

 いつかわたしはこの季節を好きでも嫌いでもないこの春を、愛することができるでしょうか。愛したいと、切に祈るのです。