わたしのなかの三つの顔

 

 

 《わたし》という人間を近ごろあたらしく知るにつれ、わたしにはおもに三つの顔があるのだということに気づきました。多面的でない人間など、おそらくこの世には存在しません。そのいくつかの側面は、宝石のように輝いていたり、腐敗した果実のような色や匂いを放っていたり、美しい仮面のうしろにはりついた蛆虫のようなものだったり、ひとによってさまざまでしょう。

 

 わたしの三つの「顔」はそれぞれおおまかに、水と風と火に分類できると自分では考えています。

 

 水は他者に対する愛、といえばつたわるでしょうか。わたしのなかの《愛》の水を、他者にそそぐときの顔です。親しいひとたちがわたしといることでソファーの背もたれに寄りかかるように寛いでほしいと願う、わたしの《愛》に名前をつけるならば「水」。プライベートでおつきあいのある友人たちのうち、おそらくほとんどのひとはわたしにこの顔を見ていると思います。


 風はわたしの本質のようなものだと自分では思っています。水が愛のエレメンツならば風は知をあらわしますが、その「風」の息吹は鋭い刃にもなるので、わたしの本質でありながらかぎられたひとしかわたしは「風の顔」でコミュニケーションをとることはありません。しかし文章を綴るとき、そこには本来のわたし、わたしの本質があらわれるらしく、文章を書くうえでのわたしは「風」の顔で言葉と対峙します。そのため文章からわたしという人間に出逢ったひとは現実のわたしに驚かれることも多いようです。そしてその逆もまたしかりのようですが、興味深いことと思います。

 

 火。わたしのなかにも「火」があります。炎の踊り子のようなわたしが《わたし》のなかに存在する。燃えさかる薔薇のような心で、ほの昏い地獄の美しさに魅入られること。自分自身がそのような傾向にないといったら嘘になります。わたしはその「火」を自己統制しながら生きることで、自分のなかにいまその火があるのかどうかすらわからない状態ですが、しかしたしかにわたしのなかに「火」はあるのです。去年のいまごろ燃えさかっていたその「火」はどうやら鎮静できたようですが、またいつ発火するともかぎりませんので、「水」をあふれるほど自分のなかにもち、いつでも消すことができるように準備しておきたいと考える次第ですが、またこうも思うのです。

 

 

 どうしてその《火》を消さなければならないの?