ある読書の感想(3)

 

 

 

 

 中井英夫詩集/現代詩文庫

 再読。世界がまばたきしたとき、夜がくる。宵に開く天鵞絨のドア、かそけき闇の底の果て。金に銀に瞬いていた星たちは死に、黒猫にかじられて月は欠け、むなしく両腕をのばしたその姿さえ、真夜中の太陽に覆われてしまった。あの羽虫はわたしの恋、あの蛆虫はわたしの影。蝕まれて咲く炎の花、毒粉をまき散らしはためく白い蝶、金魚は誰かの美しい手のように尾を引いて泳いでいる。どこかでかなしんでいる犬の声をききながら、時間のうえに吊られ揺られて、ひたすらに待つ。まちびとは紫水晶の国へと私をいざなう冥府の案内人。その名は月蝕領主。

 

 

 

 インセスト――アナイス・ニンの愛の日記/彩流社

 再読。アナイスは天体のまわりで輪を描く。神話的にやさしく穏やかな海王星。過去の疵でありすべてのはじまりの土星。英雄で乞食で鬼神の太陽。その星々を知り、見つめ、訪れ、呑みこむ。彼らを自分のものにする。それとともに蕾が花になり果実になるように、彼女も完成されてゆく。おかえしに彼らに捧げられるのは彼女自身。贈り物は愛の花束。けれども彼女は梔子の花だ。饒舌でありながら寡黙。肝心なことはなにひとつ口に出さず、秘密は固く閉ざし、すべては紙のうえに綴る。彼女の心を誰よりも知っている日記こそ、彼女の神なのかもしれない。

 

インセスト―アナイス・ニンの愛の日記 無削除版 1932~1934

インセスト―アナイス・ニンの愛の日記 無削除版 1932~1934

 

 

 

 欲望/スーザン・マイノット/東京書籍

 蛙やカタツムリや仔犬のしっぽでできているらしい男の子たちは、少しでも速く走ること、空を飛ぶことに熱中し、ときどき外から草の匂いをさせながらやってくると、少女を強奪する盗賊となる。花びらはむしられてゆく。彼らの顔が迫ってくるとき睫毛を伏せてしまうのは、盃でもせがむようにくちづけを待っているわけじゃない。胸の痛みが目にしみて、泣いてしまいそうになるから。あなたの顔を見ても、その名前を思い出せない。わたしの部屋のない窓を、開けてくれるひとは誰もいない。ノックしてくれるひとですら。だから、目を閉じて。目を閉じて。

 

欲望 (シリーズ・永遠のアメリカ文学)

欲望 (シリーズ・永遠のアメリカ文学)

 

 

 

 角砂糖の日/山尾悠子深夜叢書社

 再読。百合喇叭を枕にして眠りたい。夢を見たい。狼少年が吐きつづけた綺羅めく嘘と、恐竜の卵みたいな雨だれが大粒の言葉となって落ちてくる夢。あんなに煌々と輝いていた月には昏い雲がかかり、畏れていた夜の森には花ざかりの香気が漂う。世界の祝福の乳をのみ、体内に甘いミルクの血を流す幼子が、少しずつ変容しそれが決定的となる日、世界は反転する。すべての疑問符は紅茶に浮かべた角砂糖のように琥珀色に溶けてしまう。だからいまだけは、崩れゆくものに背をむけ、永遠に解けない謎を羽毛にして眠りたい。それが悪夢でも、かまわないから。

 

角砂糖の日

角砂糖の日

 

 

 

角砂糖の日(新装版)

角砂糖の日(新装版)

 

 

 

 しあわせだったころしたように/佐々木中河出書房新社

 戦慄しかない。ページを繰る指先から火花が散って、背骨に電流が走る。これは詩で、そのうえで物語で、両立するはずのないそれが融合して溶けあい、どちらがより重くも軽くもない均衡した奇跡のなかで、無音の世界に流麗な言葉が一文字ずつたゆたっていた。つかまえたくて、つなぎとめたくて、静けさを壊さないようにゆっくりと深呼吸をする。宙に集った言葉たちを吸いこんで呑みこみ、自分のなかに浸透させる。最後に訪れる耳鳴りを感じながら、しあわせだったころしたようにと呟いたとき、ぽろりと涙がこぼして、その恐ろしいほどの才能に震えた。

 

しあわせだったころしたように

しあわせだったころしたように

 

 

 

 魔法の杖/ジョージア・サバス/夜間飛行

 目をとおすつもりのない書物をなにかのはずみで手にとると、そのまま本棚に戻すことができなくて、その扉をめくってひとことでも読まずにはいられない。あるいは目を閉じて不確定ページを開き、這わせた指先が自分の意志でとまったとき、ひとさし指が示す文字、たとえば「月」「宝石」「チョコレート」というような、そこに綴られたものに意味を見出したりする。子ども時代にそんな遊びを覚えて、だいぶあとになってから私は書物占いというものを知った。シンプルな暗示と歓喜と警告。自分自身を覗く魔法の杖。こんな本があるなんて、と嬉しくなる。

 

魔法の杖(新装版)

魔法の杖(新装版)

 

 

 

 リルケ詩集/岩波文庫

 薔薇の花びらに眠る幾層もの記憶。それが目覚める気配はなく、知らぬ間にすべて忘れていってしまう。その匂いさえ、もう思い出せないほどに。けれども何度でも呼び戻されて、花のように満ち散っていった過去の、数珠繋ぎとしてしか存在しない「不在」を深紅の哀感に染めあげられる。私を呼ぶ男。愛する薔薇の棘に刺された傷がもとで葬られたリルケは、最後の瞬間まで心に少女の魂を飼い、詩の世界に生きた。どうして「野ばら」は彼の作ではないのだろう。手折りて往かん野なかの薔薇 手折らば手折れ思出ぐさに 君を刺さん 紅におう野なかの薔薇。

 

リルケ詩集 (岩波文庫)

リルケ詩集 (岩波文庫)

 

 

 

 玉造小町子壮衰書――小野小町物語/岩波文庫

 再読。時はいにしえ。ひとりの女の美しさを誇ったころは、物思いに耽るあいだに花の色のように移り過ぎて、肉体を失っても永久に生きつづける暗黒星雲みたいな悪夢にとり憑かれ、髑髏となり、秋の風が吹くなか目から生えたすすきが痛くて、もう眼球もないのにあふれる涙の塩辛い海で溺れ死ぬ思いをした話を聞くとき、このナイトメアに侵されるなら、私だったら闇夜に瞼の奥から紫陽花を咲かせたいと、とち狂ったことをなかば真剣に考える。私の視てきたすべてを吸いあげて花開くそれが、美しくなくてもいい。水晶のようにほの青く冷たく光ればいい。

 

玉造小町子壮衰書―小野小町物語 (岩波文庫)

玉造小町子壮衰書―小野小町物語 (岩波文庫)

 

 

 

 KIDS!/作品社

 アンファン・テリブル。どこにでもいてどこにもいない、恐るべき子どもたち。それぞれの才能と運と時代によって、歴史に名を残した者たちのKIDSのころの肖像写真。この少年少女たちは、どんな息子であり娘だったのか、兄で妹で姉で弟だったのか、時間をとめて永久に、一瞬をこえて不変に刻みつけられたポートレイトの俯いた顔の翳り、曇りのない破顔、生意気な顎、静謐な瞳が教えてくれた。いまもかれらは終わらない幼少期を生き、無数の生と可能性のなかで未来のことなど知るよしもなく、無垢と不遜の繭にくるまりながら微笑んでいる。

 

 

 

 薔薇と嵐の王子/ジョルジュ・サンド/柏艪舎

 迷宮に渦巻く螺旋階段のような薔薇。魅いる者に秘密を囁く花。どこまでいっても出口のない複雑さ、朝露を落としていのちがつきるときにも気高い女王。その香りは彼女のためにあらゆる秘術をもちいて錬金術師が合成したようなにおい。彼女のためのパフューム。それをたどって黒い翼をむしられた者。もぎとられた羽がひらりと地上に舞い堕ちるとき、嵐の王子は生まれ変わって舞い浮かぶ。死んだ薔薇は生き返る。天の破壊と地の創造はひとつになり、永遠に結ばれる。踊るおどる躍る。歌をくちずさみ輪をえがき、微風に翅を揺らして舞踏する蝶の祝福。

 

薔薇と嵐の王子

薔薇と嵐の王子

 

 

 

 青卵――東直子歌集/本阿弥書店

 再読。透明な十月。それなのにやっぱり空は青い。清澄なその空間は薄くて脆い殻のようでもある。青卵、というこの題名をなぞるとき、私は地球のことを考える。青い卵とはこの世界のことで、頭上を仰ぐとき、私は世界の殻を見あげているのかもしれない、と思う。真珠色の雲は白味。海は目が眩むほど蒼く、夜は胸が騒ぐほど碧い。そこに裂け目が入ったとき、そこからなにが流れてくるのか。

 

青卵―東直子歌集

青卵―東直子歌集

 

 

 

 院曲サロメオスカー・ワイルド/沖積社

 日夏訳で再読。この乙女の青白い頬は銀の花の色、白い蝶が舞う雪の色。彼女の瞼の裏に棲む月が、天を夢見る。預言者のなかに翼を見たとき、空に焦がれるように男に焦がれる。花は散り蝶は死骸となる。月は穢される。絢爛な言葉の装飾に飾りたてられた神殿のなかに、その首は祀られている。サロメという巫女のもとで。

 

院曲サロメ(撒羅米)

院曲サロメ(撒羅米)

 

 

 

 

 雲の上からの手紙/沼田元気ブルースインターアクションズ

 雲のうえからあなたのことを考えてこれを書いています、なんてエア・メールが届いたら、どんな気持ちがするだろう。よりぬかれた便箋、切手のなかの小宇宙、消印にこめられた感情、蟹の行列みたいにならぶ文字の筆跡。そのひとのすべてが、手紙には詰まっている。素敵なものは生きてゆくうえでほんとうには必要のないもの。必要のないものをいかにたくさん愛しているかがそのひとの豊かさになるのなら、不要なものをたくさん貼りつけた、楽しい手紙が綴りたい。それがリボンをかけて金庫にしまっておきたくなるような、宝物に化けることを願って。

 

雲の上からの手紙

雲の上からの手紙

 

 

 

 VRAIS SEMBLANTS――幻花/サラ・ムーン/PARCO出版局

 この美しさには、ほのかな哀しみがつきまとう。美しいのに切ない。美しいから淋しい。それは虹のようなもの。指先からこぼれてゆく幻影、つかまえたい夢、あまりにも見つめすぎると眩暈を起こしてしまう。秋の空気のにおいが運ばれてくるとサラ・ムーンに手がのびる。櫛のような雨が降り、金木犀の香りが漂い、濃紺の影は薄くなる。郷愁の充満。どこかに還りたい。懐かしくてたまらない。そんな気持ちをこの本に掬いあげられる。それはきっと、幼少時代の空白を埋めてくれるものを彼女の写真のなかに探しているから。失われた記憶。存在しない過去。

 

VRAIS SEMBLANTS―幻花 (PARCO Vision CONTEMPORARY)

VRAIS SEMBLANTS―幻花 (PARCO Vision CONTEMPORARY)

 

 

 

 重力と恩寵――シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄/ちくま学芸文庫

 再読。わたしには神さまはいないから、心からなにかを願うときは自分自身に祈ることにしているの。ものごころ、というものがつくまえにそんなことをいって、やさしいひとを困らせたことがある。そういうことは口に出さないほうがいいと悟ることを分別がついたというのなら、いつしか私にもそれが芽生えたのだろうけれど、胸の内側ではそのころと少しも変わらずおなじことを考えているから、この本について語る資格をもたないのかもしれない。けれど何度でもこの本に、この強靭な言葉に戻ってくるのだ。そして祈る。神ではない、何者かに。

 

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)