ある読書の感想(2)

 

 

 

 人魚のおくりもの/バーバラ・レオニピカード/長崎出版

 誰の心にもあるブラックホール。傷口のように開いた裂け目から、昏い声が楽しげに囁く。「もっと、もっと」。飽くことなく欲しいものに手をのばすのに、?んでしまった瞬間、望んだものはガラクタになる。それを簡単に底のない暗い穴に放りだし、次の獲物に狙いをさだめる。すぐに関心を失うのは、心から欲しているものではないから。上昇的な現実の願望のために、犠牲となるのは人魚や星といった夢のかけらたち。装飾的な欲望の衣裳はいらない。それを脱ぎすてて、無色透明の部屋に住み、好きなように眠り食べ歌う、やさしい野蛮人になりたい。

 

人魚のおくりもの

人魚のおくりもの

 

 

 若いコロニイ/北園克衛

 歪みのない真珠みたいな月がほしいときみがいう。それならば、きみの貝殻のような耳に、銀の魚のような指に、絹の髪の手触りに、満月を浮かべてあげよう。けれども、それではないと否定された。この葡萄酒の夜に照る月は、天空も湖面も自分のものにはならない。手に入れたいのは真昼の月。それを毎日眺め、この黒曜石の瞳に、この夜に、白い月を宿して世界中のあらゆるものを映したいの。ほら、と気ままな獣みたいに笑って指さす空。目を凝らしていると、太陽の隣に空白の満月が浮かんでくる。見えるでしょう? ぼくには見えない。きみが見えない。

 

若いコロニイ―詩集 (1953年)

若いコロニイ―詩集 (1953年)

 

 

 

 廃墟の月時計/風の対位法/高柳誠/書肆山田

 夜半をすぎるとき、女たちが月に供物を捧げ中天を仰ぐ時刻の鐘が鳴る。数々の幻影を生むその白銀の指輪。震えながら舞い降る白い花びら、球体の穴の果てに駆けてゆく白い馬、滴る金の雫の月長石。それらをすべてあつめて伽藍にしまっておく。けれども満月の夜は、いつもよりその夢の輪郭が濃く輝くゆえに、月は人間を空想へと憑かせるため、自らも疲れてしまう。月光の泉は涸れてゆく。気がつくとその洪水をおさめた伽藍は柩となっている。白い骨となった月は、光の廃墟となる。そして私も、満月の棺に供物として心を捧げ、自分自身を廃墟にする。

 

廃墟の月時計/風の対位法

廃墟の月時計/風の対位法

 

 

 

 高島野十郎画集――作品と遺稿/求龍堂
 菜の花の囲める鬼の家孤つ。沼尻巳津子の句集読み返しながら、私の脳裏には野十郎の菜の花が無数の静謐な音をたてて鮮やかに立ちあがった。暗闇のなかに灯された蝋燭の炎や夜に煌々と浮かびあがる月に、世界から乖離する自身の孤独を描いた画家。そして私にとっては、この黄色い花の画家でもあって、その絵からは魔に誘われるような哀しみを感じる。私の定義によれば、衰弱した太陽を感じさせる黄色は狂気の色。星の数ほどにもある菜の花のむこうにはきっと、その黄色に魅入られて鬼になってしまった淋しい女の、たったひとつ隔離された家がある。<久々に筑紫の野辺に来てみれば菜の花夢にさむ雨のふる>高島野十郎

 

高島野十郎画集―作品と遺稿

高島野十郎画集―作品と遺稿

 

 

 

 白鳥の歌 中村苑子句集/ふらんす堂文庫

 再読。夜の底を渡る風が眠りを届ける。睡蓮の花開く音をかき消すように秋を運んで、そのまま連れ去ってゆく。しかし月が猫の目のように光るとき、宵は根の国に一歩近づいて束の間時をとめ、目を閉じたからだから魂は抜けだす。自分の好きなところに浮遊してゆく。影もまた羽ばたいて、どことも知れぬところを翔ける。碧揚羽と宙を飛び、声をあげて流れる水と漂う。魂が離れているとき、甘い夢を見てはいけない。無防備な心臓は白桃に変わり、夜の鳥に狙われて運悪く喰いつかれれば、それは宿主のなかに戻ることができず、失踪してしまうから。

 

白鳥の歌―中村苑子句集 (ふらんす堂文庫)

白鳥の歌―中村苑子句集 (ふらんす堂文庫)

 

 

 

 赤い蝋燭と人魚/小川未明 画・酒井駒子偕成社

 北の海に棲む人魚。無限にひとりで過ごした海は、死んだ時間の融解物のように冷たい灰色。だから南に憧れる。君よ知るや南の国。そこではすべてが光の粒子に包まれ、海さえも温かい、エメラルドの楽園があるという。月が太陽に、水が火に焦がれるように、北は南に吸い寄せられる。欠けてゆくものは完全な円になりたい。消えてゆくものは燃えてみたい。海から陸にあがりたい。けれども。けれども。そこはほんとうに楽園か。赤になりたかった青が望みの色に染まったとき、ふたたび青に戻りたいと思うことはないのか。世界の泪のような、海の青に。

 

赤い蝋燭と人魚

赤い蝋燭と人魚

 

 

 

 彷徨引力――野中ユリ作品集/平凡社

 引力は彷徨する。あるはずのものがなく、ないはずのものがある。上と下があべこべとなり、右と左は入れかわる。欠けてばらばらに散らばりながらも、あるべきものがあるべき場所に納まっている。歪んでいるのは時空ではなく、きっと私のほうだ。そう感じさせられる。重力に逆らって浮遊するものたち。美しく危うい彗星が飛びかう宴。自分だけの軌道を回る人体の意思は、星の眼にでもならないかぎりつかまえられない。指先から脈打つ毛細血管の茨の罠に迷いこんだその意思が、この流れる星の心臓を見つけたなら、そのときすべてをあなたに捧げよう。

 

彷徨引力―野中ユリ作品集

彷徨引力―野中ユリ作品集

 

 

 

 ヴイナスの貝殻/北園克衛

 地に墜ちる葉を見ると、それを仰いだ木洩れ日の緑の記憶も散ってゆく。忘れてく。ぼくはなにかを失い、ヲルゴオルは壊れた。すべてはスフィンクスのせいだ。あの輝かしい午前は終わった。太陽は天の頂点に達して下降してゆく。ぼくは未知の感情を知る。精神を鳥のかたちにして、鋭くあなたの心を突こうとするけれど、まったく破れやしない。あなたはただ、鋼鉄の心を撫でながら笑っているだけだ。いまならわかる。それは自分自身を嘲笑っていたのだと。扇のなかにある心を、簡単に開いたり閉じたりできない自分を。ヲルゴオルはふたたび壊れる。

 

 

 

 青猫/萩原朔太郎日本近代文学館

 萩原朔太郎の生まれた日の空は曇天。虚空のあとの雨。垂直におちてきて頭に銀の針を刺してゆく音に淋しくなって、彼の本を手にとり、それに目をとおして、なおさら淋しくなる。貧血に襲われた太陽は斃れた。その光の残滓が、その赤が、秋のはじめに見た彼岸花のそれと重り、晴れ渡り澄んだ日の空に、その青に、かなしい猫を置いてきたように感じて、閻王の口から吐きだした水と火の二匹の小鬼が私の頭のなかで踊り、騒ぐのだ。この憂さと倦みに感染して、内臓が抜け落ちてゆくような気分を味わう。陰鬱で淋しい。けれども陰鬱で淋しいのも悪くない。

 

 

 

 迷へる魂/尾崎翠筑摩書房

 純白だ。胡蝶蘭の華やかさではない。お砂糖のような甘さでもない。紋白蝶みたいな軽やかさともちがう。それは白銀の雪の純真。けれどもそれは何者にも穢れなかった白さではない。いくら踏まれて足跡をつけられても、自分自身を失わなかった白さ。それがあまりにも清廉で、その眩しさがかなしい。移りゆく日のなかで変わらないということは、回転する世界に拒まれることでもある。それを笑って受け入れる、その微笑がさびしい。夕陽を見て夜が来るのを待つことに心安らぐ、その楽しみがせつない。透明な水の温もりが掌のひらに残る。

 

迷へる魂

迷へる魂

 

 

 

 聖少女/倉橋由美子/新潮社

 再読。未紀は仮面をかぶっている。だから彼女が記したノートにも白粉と香水がふるわれている。ほんとうは自分がどんな少女なのか、誰にも悟らせないように。おのれに呪文をかけて、その魔法によって自身を彫刻し、思い描いたとおりの女になるために。離れがたく癒着した仮面。言葉と想像力のすべてをかけて「愛」の神殿を築き、情念の糸を操って少しずつその仮面を動かしてゆくこと。そして優雅に洗練された身ぶりで禁忌をおかすこと。それが彼女の愛、彼女の望むもの。これは父の娘の物語であるのと同時に、母殺しの系譜につらなる書物でもある。

 

聖少女 (新潮文庫)

聖少女 (新潮文庫)

 

 

 

 人魚の嘆き・魔術師/谷崎潤一郎/中公文庫

 再読。櫛で長い髪を梳り、唄声で船を沈没させる者。美と背徳の鱗を浸した水面の、彼女の巣である海から顔を出し、肢体に白い泡を弾けさせて男を呼び、鬼火にして死の顎へとみちびく。古代のいいつたえによると、人魚とは海神の一族の末裔らしい。けれど水界にも人の世とおなじ栄枯盛衰が起こり、大きな神は小さな海蛇となった。今日も彼女たちは、人間との婚姻が必ず破局で終わる永劫の宿業を嘆く。故郷の青い棲家を思って泣く。優婉を「幽婉」と、憂鬱を「幽鬱」と綴る、淡く儚い「幽か」という文字にゆきとどいた言葉の神経。大好きです。

 

人魚の嘆き・魔術師 (中公文庫)

人魚の嘆き・魔術師 (中公文庫)

 

 

 

 フローラ逍遥/澁澤龍彦平凡社
 そのひとは花々や王冠で飾りたてられている。蜂や蝶は彼のなかに汲めどもつきぬ知識の蜜を見て喜びに乱舞し、硬質な言葉の音楽を浴びた鳥は誇らしげにさえずる。本書を読むたびに、蝶や蜂や鳥やたちとおなじ光芒が私を照らす。ここは彼の庭園。彼が支配する夢幻に無限の王国は、私たちの住む砂漠の裏側にあり、その世界から不敵な超越にのって声が聴こえてくる。見えないものを映し、かたちをあたえる彼の見開かれた目には、精神の塔があり、そこには神話があって、花の精がいて、蒐集した玩具と愛好する儀式がある。澁澤龍彦に幻惑の花冠を捧げて。

 

フローラ逍遥

フローラ逍遥

 

 

 

 

 水妖詞館 中村苑子句集/俳句評論社

 此岸と彼岸のあわいとは、おそらく満開の花ざかりのなかにこそある。そこでは誰の足音もきこえない。妖気の雲みたいな桜は幽霊の衣で、藤は精神を鞭打ちながらやさしく吊るし、桃は幼いひとの傷つきやすい小さな心臓に変わり、百合の香はクロロフォルムとなり、薔薇の棘に病む。真昼は白夜と重なり、まばゆい幻視はあまりにも死に近い。そうして気がつけば、曼珠沙華のなかを歩いている。踏む影を墓にする死にまねの遊びをそこですれば、途端に鈴の音が響き渡り、挽歌とともに他界の扉が開く。そしてもう二度と、還ってくることはない。

 

水妖詞館―中村苑子句集 (1975年)

水妖詞館―中村苑子句集 (1975年)

 

 

 

 妖精王の月/O・R・メリング/講談社

 再読。夜に昏れゆく瞳の王と太陽の髪の少女は、秘密の夢と憧れ、詩と神話と物語が薄絹を纏う夏にめぐりあう。逆らえない運命の磁力で。焦がれていたもの、美しくて恐ろしいもの、だから危険をともなうものが自分に手を差しだしたとき、誘惑のままにその手をつかんでしまうには、頭がうるさく警告してくるほどに分別がついてしまった。たった一度の夏なのに。どうなるかなんて誰も知らない。それなのに。その警鐘すら聴くことのない、本能にしたがって心から信じ飛びこんでゆける、躊躇いのない乙女だけが花嫁となる。王がゆかれる、王にさかえあれ。

 

妖精王の月

妖精王の月

 

 

 

 蝶を夢む/萩原朔太郎

 再読。蝶を夢む。儚く透けるふたつの翼の羽ばたきを休めて。開け放った障子からひらひらと舞いこんできたかと思えば、奥へとすすみ、座敷のなかへ飛んでいって、自身の翅の重みに耐えかね、まどろんだ。わたしは半分に開いた襖の陰からその様子を眺め、起こさないように少しずつ襖を閉めてゆく。わたしのかわりにあなたをここに幽閉する。どうかゆっくりと眠っておいで。わたしは目覚めて、歩かなければいけない。血と涙のまじる、この醜い混沌の現を。障子を閉じたとき、その白い紙のむこうに孕む風もなくはためく蝶の黒い影を、背中越しに感じた。

 

蝶を夢む (1968年)

蝶を夢む (1968年)

 

 

 

 

 塚本邦雄全集(第1巻)/ゆまに書房

 再読。塚本邦雄の歌を読むということは、夢を紐解くのと似ている。けれどもそれは、目をこわばらせ頭のなかで歯車を軋ませて、きれぎれに見る破片をピンセットで拾いあげるようなものとは異なる。もっと根源的な麗しい戦き。たとえば青白い炎のランプを灯した宇宙、爆発する星雲、迷路みたいに果てない魔の森、真っ赤な目で凝視する太陽、そこにたどりついた刹那に氷となって溶けてゆく玲瓏の月。そんな夢の一場面。冬の海に投げこまれた錨みたいに冷酷で、夏の花のように芳しい言葉のうえで、死に至らざる病を生きる。水に葬られた煉獄の秋に。

 

塚本邦雄全集 (第1巻)

塚本邦雄全集 (第1巻)

 

 

 

  少女からの手紙/宇野亜紀良/書苑新社

 少女にもさまざまにある。貝殻にもいろいろあるように。綺麗な女の子の爪みたいな桜色のもの、恋人の耳のかたち、黒と真珠色の渦巻くメレンゲ菓子に似たもの、青味がかった光沢の輝きをもつもの、半身を失った蝶の翅のようなもの。それぞれの貝殻に記憶があり、少女たちにも物語がある。彼女たちはその貝殻を心の内側にしまいこみ、それを自分の城にして、ヤドカリとなってそのなかに隠れる。そこは誰も知らない彼女たちだけの世界。ひとことでは語れない少女という種族の秘めごとを、美しい夢魔が紡いだ絵にのせて、少しだけ教えてくれる手紙たち。

 

少女からの手紙

少女からの手紙