ある読書の感想(1)

 

 《まえがき》

 数年まえのことになりますが、とある読書サイトに感想を書いていたことがありました。その場所はもう退会してしまい、そのとき綴らせていただいた書物へ捧げた文章も手もとにほとんど残っていないのですが、ほんのすこしだけわたしのもとに残ってくれた感想があり、いまとなってはどなたかの目に触れるのも恥ずかしいものではありますが、そのときの文章のまま公開させていただくことにいたしました。「ほんのすこしだけ」といいましたが、それでもけっこうな量ですので、本日から三日間、三回にわけて掲載させていただきたいと思います。

 

 

 

 新釈雨月物語・新訳春雨物語上田秋成・訳 石川淳ちくま文庫 

 再読。幽霊になるのは女だと、なぜだかそういうことになっている。どうして女なのかといえば女には愛執があるからで、それに近いものが男にあるとすればそれは妄執であり、だから男は怨霊や死霊になることはあっても、幽霊にはならない。幽、優、誘、霊、麗、鈴。ゆうれい。力に遺恨を残すのが男なら、愛に口惜しくなるのが女で、そこに怪異のみなもとがある。そのほか鬼神も妖怪も、あらゆる怪奇が雨と月を浴びながら棲むこの世界。私の好みは『吉備津の釜』と『夢応の鯉魚』。上田秋成の絶品を、格調高い美文で愉しめる石川淳の名訳。

 

新釈雨月物語;新釈春雨物語 (ちくま文庫)

新釈雨月物語;新釈春雨物語 (ちくま文庫)

 

 

 

 マルティニーク島蛇使いの女/アンドレ・ブルトン/エディション・イレーヌ 

 楽園後刻、という言葉が私の頭のなかに泡のように浮かび、弾けることなく脳内で燻ぶっている。マルティニーク島。ルソオの『蛇使いの女』のなかにしか存在しないような光景が視界に広がる奇跡の場所。花は星のかたちをして瞬き、果物は熟れた重い芳香を漂わせる。かの島の女たちはこの世のなによりも美しいといわれ、夜明けの色はどんな宝石よりも神秘によって磨かれている。極彩色に輝く熱帯の理想郷。そして暗転。望まれない闖入者、植民地の抑圧、眩惑の光の裏にある悲惨な困窮。楽園とは遠い虹のことなのだろうか。魅惑と憤激のエクリチュール

 

マルティニーク島蛇使いの女

マルティニーク島蛇使いの女

 

 

 

 倉橋由美子全作品(4)/新潮社

 再読。この綺羅のごときレトリック。倉橋由美子が紡ぐのはいつも、どこでもない場所の物語だ。現実には存在しない楽園、あるいは煉獄、そして冥界でもある場所で、現世を脱ぎ捨てた男と女がこの世のものではない会話をかわす。気がつくと私は悪夢の靄のような空気に包囲されている。それは作者のしかけた罠で、ページを開いたときから、言葉を読んでしまったときから、物語に囚われている。お空の星が墜ちてきて、それが宝石みたいに散らばっている文章の渦のなかに。だから私はいまでも倉橋さんの綴る「どこにもない場所」から抜けだせないでいる。

 

倉橋由美子全作品〈4〉 (1976年)

倉橋由美子全作品〈4〉 (1976年)

 

 

 

 月/グリム兄弟 画・建石 修志/パロル舎

 再読。欠けることのない満月の夜。それでも完全な円は少しずつ蝕まれ、やがて闇の帳がおりる皆既月食の晩に。その王国には月も星も不在で、太陽が沈むとなにも見えなくなる。旅に出てようやく手に入れたお月さまもゆっくりと欠けてゆく。欠けたそばから死が生まれる。まるで皆既月食のように。あとに残るのは暗黒の空間。盗んだものを奪われて、天に飾られることになった月。ここからなら平等に世界を照らせる。つまりは月を所有することなんて、誰にもできないということ。わかっているのに欲しくなる。それは人のさがだから。昔も今も変わらずに。

 

月 (絵本グリムの森)

月 (絵本グリムの森)

 

 

 ぼくの小鳥ちゃん/江國香織/新潮社

 再読。掌のひらでくるむと、そのなかにすっかり隠れてしまう小さな存在。可憐で無邪気で我儘で奔放。冬の空は灰色でも小鳥ちゃんと遊び振りまわされる毎日は、ぴかぴか輝いている。そしてなぜそれがぴかぴかに見えるのかというと、きっとその幸福が限りあるものだから。いつか来るかもしれない巣立ち。別離の予感が小鳥ちゃんの羽根のように純白な日々のなかに切なく忍びこんでいる。なんでも受け入れてくれる男のやさしさに哀しみが蓄積して、飛びたちたくなる気持ちが私にもわかる。足音も立てずに訪れるその日までは、きみはぼくの小鳥ちゃん。

 

ぼくの小鳥ちゃん

ぼくの小鳥ちゃん

 

 

 

 薔薇と野獣/フランチェスカ・リア・ブロック東京創元社  

 小娘のころ、この本に呪いをかけられた。糸車の針のように、毒入りの林檎みたいに。その針はいまも私のなかに刺さり、毒は血となって体内をめぐっている。「めでたし、めでたし」が消滅して、おとぎ話の夢の泡は弾けてしまった。世界も年をとっているのだから、それはしかたのないこと。知りたいのは「そのさき」のこと。すべてを終えたあとも、心臓は強く熱い鼓動を聴かせてくれるのか。その響きは、ずっと聞きたいと願っていた物語みたいに懐かしい音色を奏でているのか。貴石のように透きとおり、鉱石みたいに輝く少女たち。甘美な針、暗黒の毒。

 

薔薇と野獣

薔薇と野獣

 

 

 

 蜜のあわれ室生犀星 写真・なかやまあきこ/小学館

 再読。炎の、血の、夕焼けのあか。尾は開いた舞扇みたいに、浴衣の帯のようにひらひらと誘い、鱗の花びらで男の愛を閉じこめる。蜜の瞳で男の心をとろりと奪う。くちびるにルージュをひかなくても、すべてが真紅。どこまでも深紅。身も心も赤く染まっている。夢の浮橋を行ったり来たりしながら、金魚と少女の狭間を生きる者。彼と此の岸を彷徨いながら現れる幽霊たち。忍びよる死は朱色のなかに青白い影を滲ませる。エロスとタナトス。犀星のこの世ならざる美しい小説に、なかやまあきこさんの写真が戦慄的に旋律を奏でて、何度読んでも好き。

 

蜜のあわれ

蜜のあわれ

 

 

 ポルトガルの海――フェルナンド・ペソア詩選/彩流社

 再読。フェルナンド・ペソア。誰でもない者。いくつもの異名と無数の生を航海したひと。この世界の異邦人となるために自分すらも他者とし、空から地上を見おろす一羽の鳥のように、その視線を浮遊させ俯瞰すること。だから彼は原稿しか入ってないトランクを片手に土地を移動し、旅をする。すべては頭のなかで。意志も感情も「不在」とすることこそ、彼の記録。ひとり遊びを横断しながら、ふときまぐれに私たちの前に現れるペソアはいつも、色も匂いもなく透明だ。彼はポルトガルの海となり、雨となり花となり、また海となって、原初の生命へと還る。

 

ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選 (ポルトガル文学叢書 (2))

ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選 (ポルトガル文学叢書 (2))

 

 

 アナイス・ニンの日記 1931-34——ヘンリー・ミラーとパリで/筑摩書房

 再読。アナイスは一冊の書物だ。他人にとって彼女はまだ読んだことのない本のようなもので、それを手にとりたい、それに目をとおしたいと願って人は彼女に近づく。彼女は拒絶しない。羽毛のような笑い声で相手を受け入れ、温かい心臓で抱きしめると、微笑みながら独楽みたいに回転して遠ざかってゆく。魔術とまやかし。自分という書物を相手に捧げるとき、相手も彼女にとって血が燃える素晴らしい本でなければならない。そうして互いに読みあう独特の関係を結ぶ。アナイスが惹かれる「書物」が数多く現れたのが、この日記を綴ったときなのだと思う。

 

アナイス・ニンの日記 1931~34―ヘンリー・ミラーとパリで (ちくま文庫)

アナイス・ニンの日記 1931~34―ヘンリー・ミラーとパリで (ちくま文庫)

 

 

 空がレースにみえるとき/エリノア・ランダー・ホロウィッツ 画・バーバラ・クーニ―/ほるぷ出版

 柱時計の鐘。暗闇のなかで十二回つづけて鳴れば真夜中の合図。眠ってないのは誰だとその音が咎めるから、あわててまぶたを伏せる。けれども月が片目を瞑る夜、振り子も針さす円盤も、時間ごと輝く白銀の球に閉じこめられる。無数の目覚め。空気に羽根が生え、レースの靄がかかるビムロスの夜。手を握りあい踊る樹々、唄う動物たち、素敵なパーティ。瑠璃の影は跳ねまわり、紫の空間は絶え間なく身を揺する。そのすべてを満月が見ている。だから約束は守ること。そうしなければ天の使者がやってきて、あなたは忘れてしまう。なにを? 人の世を。

 

空がレースにみえるとき (ほるぷ海外秀作絵本)

空がレースにみえるとき (ほるぷ海外秀作絵本)

 

 

 ジャスミンおとこ/ウニカ・チュルン/みすず書房

 再読。ジャスミンの香りが染みついて離れない。うつくしい白い花、あのひとは白いひと。わたしのなかのかれ。夢を彷徨い、かれに愛の白い婚姻を捧ぐわたしに、現身はない。それを悪いことだと人はいう。アナタノ頭ハ世界トノ回路ヲ遮断シテイマス。事実ヲ受ケ入レナケレバイケマセン。だからわたしは閉じこめられた。四角い部屋の安寧のなかに。ますます遠くなる世界。かれに出逢ったとき、わたしはきっと少女のままでとまってしまった。世界との関係は狂ってしまった。白い鷲が翼に希望をのせて空に飛翔するとき、ふたたび残酷な時間が動きだす。

 

ジャスミンおとこ―分裂病女性の体験の記録

ジャスミンおとこ―分裂病女性の体験の記録

 

 

 ある瑠璃色の夜、金魚楼に招かれし乙女たちは/秋山まほこ河出書房新社

 少女のなかには金魚が棲み、金魚は少女の魂を飼っている。薔薇のように複雑に幾層もの渦を巻き、その花びらに感情を封じこめ、一枚でも失えば自分という意味さえ失くしかねない彼女たちの心。空を飛ぶことを諦めて翼を自分で切断してしまったとき、湖水のようなこの瞳に満月が浮かび、赤い幻影が泳ぐのを見た。誰かの羽音がきこえる夜だった。鳥か蝶か、それとも天使か。それはわたしの跳躍できない高みにむかってゆくものたちの翅の音。そっと耳を澄ませてなにも見えない天をあおぐ。美しい少女人形たちの金魚が騒ぐ真夜中、ある予感の扉が開く。

 

ある瑠璃色の夜、金魚楼に招かれし乙女たちは (Panーexotica)

ある瑠璃色の夜、金魚楼に招かれし乙女たちは (Panーexotica)

 

 

 虹の獄、桜の獄/竹本健治 画・建石修志河出書房新社

 虹の罪、七彩の咎。思春期のころの世界は天鵝絨のむこうにある。ベルベットの薄絹越しにこの世の感触を知り、他人の温度を知る。けれどまれに世界と自分とのあいだにあるものが、ビロードではなくガラスの壁である者もいる。そこではどんな手ざわりも温もりもわからない。毎朝数珠つなぎになって、見えない鎖の音をたてながら通う少年たちの監獄。彼はひとりだけ輪からはずれて、満開の桜をあおぐ。雪のように降るのは彼の喜び、悲しみ、憂い、安らぎ。感情が散ってゆく。闇だ、と彼は呟く。真っ白な闇。桜の罰。無垢の戒め。出口はどこにもない。

 

虹の獄、桜の獄

虹の獄、桜の獄

 

 

 左川ちか全詩集 新版/森開社

 再読。春、淋しい霞の花野、そのなかを通ってゆく黒い葬列。黒いリボンのかかる額縁には微笑した自分の顔がある。夏、太陽は悪意ある真っ赤な目となり苛烈な色彩を放出する。人間たちはあまりにもよく見えすぎる世界をまえに気が狂う。秋、黄色い炎をあげて燃える街路樹。枯葉の寝床で子どもたちは死人のふりをする。冬、空に舞う雪は天女の涙みたいだ。掌のひらにのせたら清らかな花が咲く。そう思い手を差しだしたら、それは白い蝶の死骸となった。死は季節のようにいつでも彼女のあとをついてくる。振り返るようにと、わざと足音を鳴らしながら。

 

 

 

 不道徳教育講座/三島由紀夫/角川文庫

 再読。三島由紀夫が築いた壮麗な大伽藍は、死と無にとりかこまれている。そこにある空虚はあまりにも大きく、人はそれを直視できない。それは太陽の毒の輝きで、見つめる者の目をつぶすからだ。自身でも承知していたのか、これまで失明を訴えられたことはないと、本書で冗談交じりに綴っている。大伽藍のなかに御神体はない。なにもない。けれどもだから自分を殺害してそこに祀った、などというのは早計で、三島はその遺体が大伽藍の外に放置されることを望み、骨は犬に喰われることを願っていたのではないかと、この本を読みながら感じる風葬の日。

 

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

 

 

 犬狼都市/澁澤龍彦福武書店

 再読。犬狼都市——キュノポリス。その瞳孔は黒い星の宝石。鋭い一瞥で眼差しから磁力を発する彼女の敏感な視線は、否の烙印をおした相手を感電させて黒焦げにする。少女だけがもつ植物の残酷さ。狼の歯であっても噛み砕けないほどに硬質で透明で光輝な、不純物のない石の結晶のなかに閉ざされたとき、彼女の脚は樹の根のようにある残忍な力と意志によっておしひろげられ、樹液は肢体を循環して頭にのぼる。それは吸いこんでも息もできないほどに濃い夢の支配。この物語を目で追っていると、澁澤龍彦の文章が金剛石のように感じられてくる。

 

犬狼都市

犬狼都市

 

 

 齋藤愼爾全句集/河出書房新社

 再読。蛍が命を落とすとき、椿が赤く落つるとき、獄はおわるのか。それともそこからはじまるのか。楽園、そのあとの地獄。どこまでも透明な夏が過ぎ去ると、世界は隠していたほんとうの姿を現す。冬が来る。荒い波と吹雪に閉ざされて、この世は絶海の孤島になる。私たちのなかにも暗澹の空が広がり、鈍色の雲が蛇のようにとぐろを巻く。内も外もとざされ幽閉されると、自分という地獄が出現してくる。蛍のように棲みついている霊魂に宿った獄、闇のなか艶やかに整然と死んだ赤い椿から不幸が伝染する獄。美しい獄の幽玄を有限に、無限を夢幻に詠む。

 

斎藤慎爾全句集

斎藤慎爾全句集

 

 

 ルバイヤート/オマル・ハイヤームマール社

 夜は恩寵。天使の白い羽根が漆黒に揺らめき、窓は閉じられ、嬰児は目を開ける。そこに生まれるまえの世界を見つけて。神は重力。信じようと信じまいと、吸い寄せられるもの。神は地で、私たちは樹になる林檎。いつかそこにむかって落ちてゆく。月は葡萄。誰の手にも入らないその果実は、女神の好物。ひと粒口にふくむと広がる甘美に彼女は微笑み、星は金色の輪郭を強くして、空に笑う。薔薇は不死。花びらの娘たちは頬を染めて芳香をまとい、永久を誓う。恋人の頭上に花環を飾れば、彼女は王女だ。覚めない夢を、冷めない熱を、醒めない歓喜を。

 

ルバイヤート

ルバイヤート

 

 

 夜なき夜、昼なき昼/ミシェル・レリス/現代思潮新社

 昼も夜もなく昨日も明日もなく、夢に遊ぶ病。蝙蝠の時間が墜ちてくる白昼。銀箔に瞬く真夜中。そこに架空の国がある。自分自身が夢の王たるその王国は、うつつの経験が脳に蓄積され処理し残した記憶からできている。けれどもそれだけではない。変幻自在、縦横無尽。望んでも望まなくても我というかりそめを赤裸々に脱ぎ捨てた空間では、どんなことでも起こりうる。おのれの墓石を見ることも、ミノタウルス的な怪物に変身することさえも。そこに安らぎと慰めを見つけることがあるのは、どんな夢も現実の悪夢よりはやさしいのだと、知っているから。

 

夜なき夜、昼なき昼

夜なき夜、昼なき昼

 

 

 和泉式部集・和泉式部続集/岩波文庫

 再読。恋と歌に彷徨った彼女は、此岸と彼岸の中間にいる。自分の意志で扉を開けて境界を渡り歩くのではなく、一歩踏むだすと垣根はたちまち消えておぼろになり、どちらに進んでもその先にはなにもなく、ゆるやかに宙を舞うように別の世界に落ちていく放心的な妖しさは、彼女のなかにある小さな空洞から生じたもので、その穴が少しずつ開いてゆき、やがてはわが身さえも呑みこんでしまうことを予感しながら、少女のころの冥き予言を吹き飛ばしてくれる無限を泡沫の恋に求める。刹那に永久を見た彼女の魂は蛍となって、いまも美しく哀れに漂っている。

 

和泉式部集/和泉式部続集 (岩波文庫 黄 17-2)

和泉式部集/和泉式部続集 (岩波文庫 黄 17-2)

 

 

 ストーナー/ジョン・ウイリアムズ/作品社

 再読。 過ぎてゆくもの掴めなかったものを、振り返って追いかけることなく、ただ自分にあたえられたことを、沈黙で受け入れる。ひとつかけちがえてずれてしまったボタンが、どうにもならないままならなさともどかしさを生み、悲しみも淋しさも悔いも、静かな諦念に純化される。のばした手が届くことはない。ささやかな希望が叶えられることはない。痛めつけられ打ち砕かれても、すべては昇華されて純粋さに結晶される。ページを繰る指先から、私も浄化されてゆく。こんなに素晴らしい作品が永い眠りから息吹をふきかえすことができてほんとうによかった。

 

ストーナー

ストーナー

 

 

 夜想曲 高柳重信小句集/ふらんす堂文庫

 その世界では悪意の唾も、死の棘も、夢の殻のなか。巻貝の眠りにくるまり、この世の小窓が開くとき、それは訪れる。開けても開けてもドアがつづく。息絶えそうな月光が硝子窓から射しこみ、それは皮膚を透かして腐食性の水銀のように光沢を放つ毒になる。これを浴びてはいけない、そう思ったとき、喪服を着ている自分に気づく。黒い夜の墓標。ここは迷宮だ。終わらない扉の回廊。銀紙細工みたいな星座群も、月輪も見えない。ただその光だけが執拗に私を照らし、私は腐敗してゆく。この本の引力で、そんな夢を見た。猛毒さえも、目覚めれば幻想。

 

夜想曲―高柳重信句集 (ふらんす堂文庫)

夜想曲―高柳重信句集 (ふらんす堂文庫)

 

 

 人魚姫/アンデルセン 画・エドマンド・デュラック/新書館

 いまもむかしも、私はこの物語から女であることのかなしみを感じる。はじめて海面から顔をあげたとき、そこに眩しくきらめく自分だけの金星を見つけて、人間となった人魚。変わってゆく自身のからだへの、鋭い刃の切っ先をあてられたような無力な痛み。愛するひとと共に男のすることをなしてゆき、高い山へと登って、彼女の青い水晶の幼少期は海の底に没する。彼女は男の愛がほしかったのではなく、王子という人間そのものになりたかったのではないか。けれども女であることを宣告されたとき、宵の明星は黒く染まり、恋に苦しみ、苦しみを飛翔する。

 

人魚姫 アンデルセン童話集 (2)

人魚姫 アンデルセン童話集 (2)

 

 

 愛の生活・森のメリュジーヌ金井美恵子講談社文芸文庫)

 再読。金井美恵子という極彩で無彩の都市に足を踏み入れる。ページを繰るごとに、絢爛で残忍な彼女の街を渡り歩く。猥褻な粘液みたいな混濁と、無菌室のように人工的な風景に閉ざされた街は、次第に幻想の細菌に蝕まれ、甘美さを点滴されて、沈殿する濃密な狂気に血ぬれてゆく。どれもこれも好きだけれど、飛びぬけて魅了され夢中になるのは、白兎を追いかけて「百合」という名前のはじめに姫だか鬼だかがつく少女の話を聞いているとき。この頭の芯が熱くなる真紅の闇を通りすぎたあとも、いつまでも尾を引いて、思わず幾度も振り返ってしまう。

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)