尼僧

 

 

 神と巫女の関係のまま終わりを迎えた幸福な例は、与謝野鉄幹&晶子夫妻とか、武田泰淳&百合子夫妻とか、わたしには「神―巫女型」のご夫婦のように思えます。

 

 そういえば「神—巫女型」は父娘にもいて、森茉莉アナイス・ニンはお手本どおりの「父の娘」なのだけど、趣味の悪いいいかたをするなら、ミイラになった神さまの化石を胸に抱きながら、このミイラに良い意味でも悪い意味でも呪縛されて生きていたような気がするの。

 

 「父の娘」は「聖少女」。

 

 アナイス・ニンはご自分の父親だけでなく、ヘンリー・ミラーとも神と巫女の関係を築いていたように感じるのだけど、でもアナイスにとって男とは、自分から去ってしまった「不在」の父の身代わりだったのかもしれない、と考えたこともある。この現実の世界で「神々の戯れ」に耽ったうえに、彼女の日記にその日づけまで残っているという、文学史上で語り継がれる恐るべき父娘であることだし。

 

 そしてその日からすこしずつ、アナイスは自分のなかの神を抹殺して「神殺しの巫女」になったように感じるのです。神が失墜するとき、神を殺してしまうのもまた巫女の特性なのではないかしら。


 巫女といえば、何年もまえにタロットカードで遊んでいたころ、幾度占っても結果が「女教皇」の正位置しか出てこなくて、なにを占ってもその調子なので、しまいには飽きてやめてしまったことがあるのでけれども、いま思えば女教皇とは、すなわち巫女のカードのことでした。

 

 女教皇。少女、秘密、霊性、感受性、清楚、研究、沈黙、内側の価値、無意識の導き、見えない領域、そして巫女。

 

 あのころ、わたしはもしかしたら「巫女」に呼ばれていたのかもしれません。


 実は、とこれは告白の形式だけれど、十六歳を迎えようとするころのむかし、尼僧か修道女になりたいと考えていたことがあるのです。わたしなりに真剣に。

 

 尼僧か修道女なんて選択肢がある時点でおわかりだと思うけれど、それはもちろん信仰のためではなく、その反対物を描くために。

 

 読経やお祈りのときはほかのひとたちといっしょに口だけ動かし、信心の心得のようなものを聞かされたら横隔膜を震わせるような笑いとあくびを噛み殺しながら神妙な顔をつくり、お説教がはじまったら熱心に頷きつつ大脳の休憩をはかり、規則を実に誠実に守る囚人となり、そんなふうにして自分自身を貝のなかにでも閉じこめるように寺院に閉じこめ、遠近法による座標をうちたて自分自身という堅固な枠組みをつくり、心を捧げるふりをしながらいかにして心の自由を獲得するのか、という検証の結果「神」との関係を明確にしたい、そうして自分の正体を隠した犯罪者のように過ごしながら、騙して隠しとおせるか露見して追放されるか賭けてみたい、なんて馬鹿なことを考えていました。

 

 修道女というのはどうあっても西洋人のいう「神」の花嫁たちだし、わたしはやっぱり(なにがやっぱりかもわからないけれど)日本人だから現実的には尼僧だろうなどと考えてお寺まで目星をつけていたのだけど、現実どころかこんな話自体が夢物語のようですね。

 

 そしてそんな夢を、あれから何年経ったかわからないくらいに時間が経過したいまでも、時折考えてしまうわたしは、困ったものです。

 

 わたしは無神論者も「神」あっての言葉だと思います。ほんとうに無関心だったら神について考えもしないだろうし、その言葉が自分に当てはまるなんて、思ってもみないはずだから。あなたのことではなく、自分のことをいっているのよ。わたしはほんとうの意味で「無神論者」なのだと、つくづく思うの。でもあなたとおなじように、八百万の神々はわたしも好きです。世界の神話のなかの神たちも。オリンポスの山みたいな環境で暮らすのが、数ある夢のなかのひとつだったくらいだし。ふざけたことばかりいって、ごめんなさいね。わたしの冗談は本気で、本気は冗談なの。

 

 とにかくわたしは巫女に呼ばれやすいみたい。

 

 それをどんな名であらわしてもいい。少女でも、女教皇でも、そう、尼僧でもね。みんな異なる名前をもったおなじもののことだもの。

 

 

 

 

 (Kへ宛てたいつかの手紙の断片から、27)