閉ざされた蜜の部屋――志田良枝さんに宛てて(1)

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 花が棲む。わたしの心臓に植えつけられた種子は幻想の芽を宿し幻惑の花びらを綻ばせる。その花の蜜に閉じられた黄金の部屋に姿を隠す精霊が、わたしに囁く夢をみる。眠りのむこうから彼女が呼ぶとき、おのれの伏せた目のなかに妖しく美しい花の幻影を視る。——これはわたしが画家である志田良枝さんの、彼女と彼女の描かれる絵から連想して捧げた言葉ですが、彼女の絵について触れるとき、これこそがわたしのいいたかったことであるといまあらためて感じるので、これから綴らせていただく文章の冒頭に引用しておきます。

 

 良枝さんの絵をはじめてこの目で拝見することが叶ったのは、今年四月、吉祥寺のギャラリーイロさまで開催された個展、「水彩庭園」のおりでした。良枝さんが本格的に絵に取り組まれてからまだ四年でいらっしゃること、そのなかでの初個展であることなどをそのときはまだ知らず、ただわたしはご案内のお葉書に描かれた薔薇の画に魅せられたのです。それは言葉ではいいあらわせないほどの美しさでした。

 

 硝子みたいな花びらは淡く透きとおるようで、まるで少女の心臓みたいだと絵のまえで放心しながらわたしは考えたものでした。女ではなくなぜ少女だと感じたのかについていえば、それは「香り」というものを排斥した絵画のように、わたしには感じられたからです。

 

 どこまでも馨しい花の匂いというものはしかし、人間の五感のひとつを楽しませるためのものではないはずです。蕾をひらいてしまったからには、つよい芳香を放ち自分自身の魅力によってどれだけ誰かを(誰を?)惹きつけることができるか競うみたいに咲く花たちに、わたしは《女》を見るのだけれども、良枝さんの描かれる花はその「香り」というものを優雅に高潔に退けている、とわたしは感じたのです。蕾をほころばせた「花」でありながらそこに少女を想ったのは、おそらくそういう事情によるもので、良枝さんの描かれる「少女」は儚く溶けるようでありながら、しかし誇りに満ちている。矜持を砕かれてしまうくらいなら、息絶えてしまったほうがずっといいと宣言するみたいな、それは儚さなのです。

 

 水彩庭園のおり、わたしは一枚の絵をお迎えしました。その絵にはもちろん題名はあるのですが、それとはべつに、わたしだけの愛称のようなものとしてこの画を「お七」と呼ばせていただいています。そう、八百屋お七から連想した呼び名ですが、この真紅の焔に灼かれるように燃えさかる薔薇が、ひと目見たときからわたしにはお七の心象風景のように感じられたのです。

 

 火の海から救出されたときに出逢った男に恋をし、もう一度おなじように世界を炎で燃やせばその男と再会できると信じて、その罪で火刑に滅びた彼女。その火とは彼女の恋心のことであり、燻って発火した焔はたやすく消えず、むしろそれを消したいと思うほどに恋は赤く紅くあかく燃えてしまう。

 

 

 それは彼女を地獄へと誘う彼岸の花です。

 彼岸に魅入られるように、彼女は火の虜になった。すなわち恋に。

 

 地獄のなかの恋こそが尊い。そこにいるのはうつつに生きる男ではなく、彼女の心に棲む男。最愛のひとは、自分自身のなかにいる。そのひとを一心に想うあまり狂気となった彼女の炎は、すべてを燃やす凶器の焔として、彼女を焦がした。

 

 その「ほのお」にやはり匂いはない。どんなに狂い咲こうとも、それは少女の皮膚のごときどこまでも透明な、「閉じられた」蜜の香りなのです。わたしがこの絵にファムファタル的な《女》ではなく、あくまで純粋で無垢だったお七という《少女》を視てしまうのは、良枝さんの描かれる絵が匂いを排斥した少女であることと、きっと無関係ではないと思います。彼女たちはその内部に鍵のかかった蜜の部屋をもち、そこにはまだ、何者も侵入できない。お七でさえも、その黄金の部屋に想いびとを招くことはなかっただろうと、わたしには思われてならないのです。

 

 ここまでが前置きのつもりでしたが、無計画に綴っているうち、文章が長くなりすぎました。

 

 良枝さんの絵については、またあらためて語らせていただきたく思いますので、この文章の題名には、勝手ながら(1)を加えさせていただきました。