白亜の余白に

 

 

 「白亜の余白に」という題名を無意識に綴ってしまってから、どういう意味だろうと自分でもすこし困惑している。白、とひとことにいっても誰もが脳裏におなじ「白」を思い浮かべるわけではない。世界の乳が祝福をこぼしているミルクのような陽射しを思い浮かべるひともいるだろうし、また殺菌された病室みたいに清潔で人工的な不吉さを連想するひと、何者にも穢されることのないただひとつの色としてそこに気高さと誇り高さを視るひともいるでしょう。

 

 わたしは日香里さんは白亜のごとき白を纏う絵を描かれるかただと自分が思っていることを、無意識に綴った題名から知りました。そう、画家の日香里さんのことを書きたかったのです。日香里さんは繊細な線によって、背景の白にやわらかくやさしくあたたかみのある白亜の余白をあたえるかただというお話を。

 

 日香里さんの銀筆画をはじめて拝見したのは去年の九月、 silent musicさんの「白鳥に導かれて」展に訪ったおりのことです。はじめてその場所に足を運んだわたしは緊張と不安のなか、あの「天国への階段」をのぼり静かな音楽を奏でられる久保田恵子さまの音楽室の扉をあけました。そこで出逢った絵は、どれもそれぞれに素晴らしかった。しかしわたしの目はある一点の銀筆画に釘づけになりました。日香里さんが描かれた、ギリシア神話レダの絵です。

 

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 この諦念と潔癖を纏う美しいかたにわたしの視線は奪われました。あのマリアさまのお庭のことを想うとき、いつもわたしの脳裏に浮かぶ絵です。わたしはこのかたをお迎えしたくてたまらず、しかしはじめて訪った場所への気後れからどうしてもいいだすことができなくて、いつまでもこの絵を見つめていたい気持ちを懸命にこらえ、後ろ髪をひかれるようにあの音楽室をあとにしたことを覚えています。いまでもわたしのもとにいらしていただけなかった悔いはあるけれども、お迎えできなかったということもふくめてひとつのご縁であり、このかたはきっとふさわしいかたのもとで幸福に暮らしていらっしゃるでしょうし、わたしはこの目でこの絵を視ることのできた幸福のことを考えたいと思います。

 

 ただ、絵そのものの魔力によって忘れがたい作品であることはたしかでしたが、ぼんやりしていたわたしはどなたが描かれた画であるのか、明確には認識していませんでした。わたしがはっきりと日香里さんという画家を識ったのは、霧とリボンさんで開催された「英国文学十四行詩集」展でのことです。

 

 日香里さんはオフィーリアを描かれていらっしゃいました。男を愛するあまり狂気の崖から転落し夢の湖に溺れたあの少女は、絵を描かれているおおくのかたのモチーフとするところです。幾度も繰り返し画家の夢のなかで生きた(あるいは死んだ)彼女には、「オフィーリアといえばこういうひとだ」と人々が知らぬ間に想像するひとつの形式があります。しかし日香里さんのオフィーリアを拝見したとき、その概念がくつがえされるのを感じました。

 

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 この意志が宿った強い眼差し。あわい夢の膜をはった瞳でまぼろしを映し、おのれの目のなかに浮かぶ湖で溺死した彼女はそこにはいません。愛の祈りのために死に、その愛のためにこの世ならざる者となって男を招く魔物となったオフィーリア。そこに儚い少女はもう存在せず、男を強くもとめる女の姿があります。後日お聞きした日香里さんの説明によれば、このオフィーリアのいる場所は湖ではなく海なのだそうです。狭く閉ざされた湖から広く開かれた海にまで彷徨い、少女として死んだ彼女は女として青い塩の砂漠を漂流しながらハムレットのことさえ忘れ、しかし愛と表裏一体の《死》だけを宿し船上びとを破滅させる魔となった。それは哀しく美しい解釈です。この絵をまえにしたとき、わたしは感嘆とともにそっと吐息をおとしたものでしたが、そのときわたしの息は魔に魅入られた者の潮のにおいがしたかもしれません。

 

 また、その展示のおり日香里さんのおつくりになられたオフィーリアとジュリエットのブックマークにも心惹かれ、ジュリエットをわたしに、そしてオフィーリアは親しい女の子にお贈りしました。

 

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 このブックマークのオフィーリア、運命がもたらす悲劇に涙をこぼす彼女は儚い少女です。その視線はおそらく、たったひとりの男にむけられている。対してジュリエットは女だとわたしは思います。さきほどのオフィーリアのようにおのれの少女を亡骸し、愛のために女となった者だけがもつ強い眼差し。このジュリエットの意志をわたしは愛し、お守りみたいに持ち歩いています。

 

 今年の春にはやはりsilent musicさんで日香里さんの個展が開催されました。「いのりて」と名づけられたその展覧会に出展された絵は、女性の美しい手に宿った祈りそのものでした。

 

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 五つの祈り。販売されていたポストカードもお迎えし、額のなかにおさめ「祈り」のひとつとしてわたしのお部屋のなかに静謐に佇んでいるその絵がわたしはいとおしくてたまりません。ちなみに林檎を手にしているものが意味深長で、わたしは特別に好んでおります。

 

 そして最後に。日香里さんの描かれる絵はどれも心から好きなのですが、ずっとこの目で拝見したいと願っていたものがありました。

 

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 このかたです。このたびの聖セシリア展でようやくお目文字が叶い、わたしはほんとうに幸福でした。この美しいひとに、とてもお逢いしたかった。実際にお目にかかって少女で乙女で女でもあるようなその眼差しと目があったとき、心が震えるあまり涙がこぼれそうになりました。彼女はいったいどなたで、手紙にはなにが綴られているのでしょうか。わたしには彼女が高貴なかたのように思われてなりません。亡き王女のためのパヴァーヌみたいに、うつくしい追想をこの画から連想するのです。

 

 日香里さんの描かれる絵には白亜の余白があると、わたしはあらためて思います。その余白にかなしみもやさしさも愛も祈りもこめられている。その白は、天使の翼の羽根はこのような色をしているのではないかと感じられるような、かなしくやさしく愛の祈りに満ちた白なのです。

 

 

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