奥歯

 

 

 二階堂奥歯の『八本脚の蝶』を、ようやく読み終えることができました。

 

 「こんなにも魅力的な言葉を綴るひとを、ぼくはほかに知らない」とあなたがそう評した奥歯さん。紡いだ文章だけで、あなたの心を絡めとってしまった彼女。あなたのなかに秘められた情熱をかきたてたひと。

 

 「これが恋でなくてなんだろう」と、あなたにそこまでいわせたひとへの興味から、わたしは彼女の書物を手にとったの。そして読みすすめてゆくうちに思いがけず、わたしの胸にも恋に近い関心が、彼女に対して芽生えるのを感じました。

 

 美のためには食を拒んで死ぬことさえでき、あるがままのわが身を美とみなす不遜とは無縁である美意識をもつ、おそるべき精神主義者たちこそが少女なのだというようなことを、むかしある詩人がいっていたけれど、奥歯さんの文章に目で触れながら、その言葉がわたしの頭のなかでこだましていました。

 

 小娘だったことはあるけれど少女であったことなど一度もないわたしなので、少女とは対岸のひとたちで憧れなのだけれど、絶対になりたくないとも感じていたひとたちでもあって、でも不遜の二文字を無縁なものとしたい気持ちだけはいまでもわたしのなかにもあるし、奥歯さんの文章からも感じられたのです。

 

 『八本脚の蝶』を読みながら奥歯さんの暮らしていた部屋を想像するとき、それは豪奢でいろんなものが彼女の呪文で生きていて、彼女のにおいや時間の断片によって魔法をかけられた迷路みたいなものを思い浮かべることもあれば、そんなふうに「もの」を手なづけてそこから夢を吸って生きることを拒絶して、入院患者が退院したあとの病室みたいにからっぽの部屋に住んでいたのではないかと思うこともあって、そんな想像力の充血こそが、わたしが彼女に魅せられてしまった証拠だと思うの。

 

 「少女」に焦がれる一方で、わたしもいいかげんに成熟した大人の女性になりたいものだと、ため息をついて読んだこの書物の感想を、あなたに宛てて綴りました。ここに記載しておきます。

 


 『八本脚の蝶』 二階堂奥歯

 女が神さまをもつということは、とても大変なことだ。神とは男であり偶像であるまえに、すべてを賭して信ずるに足る大きな存在でなければならない。そんな存在が自分とおなじ世界で生きているか、生きているのならどこにいるか、そしてようやく発見してどんなにお祈りしても、それに応えてくれるかどうかわからない。むしろ熱烈な崇拝に見むきもしないことこそが神のあかしであるという、複雑怪奇なこの心にかなう相手は存在するのでしょうか。答えは否であることはわかりきっている。だからきっと、彼女は飛ぼうとしたのだろう。まだ見ぬ神にたどり着くために。

 


 「複雑怪奇なこの心」と書いたけれど、実は奥歯さんのお気持ちが少しはわかるつもりなの。

 

 ずっとまえに、こんなことをどこかの誰かにいったことを、いまでも覚えています。


 *

 

 女のひとはきっと、誰であってもみんな、自分だけの神さまをもっているのだと思います、というと男のひとは脅迫されたようなお顔をされて、「神さまになれるのはひと握りの男だけだ」なんていうのですが、たしかに神さまにならなければならないなんて男のひとは大変だと思いつつ、神さまが愚痴をおっしゃっては困るのです。

 

 だけどある日突然わたしの神さまが目のまえに現れても、わたしはそのひとに愛されたいなんて、そんな大それた図々しいことは望みません。

 

 むしろ、わたしのような女に見むきもしないひとこそが、わたしの神さまなのだと思います。

 

 わたしはそのひとを、相手にも気づかれないくらい密かに、プラトニックに想いつづけたい、そうすることができたらと思うのですが、わたしはそんなひとが絶対に現れないことを知っています。それはわたしのなかに君臨する、想像のなかだけの男なのです。

 


 もう大昔のことだけど、「心からお祈りするとき、神さまはいないからわたし自身に祈ることにしているの」などといって、相手を困惑させた経験があるの。いま考えてみると扱いづらい子どもよね。そして奥歯さんにもそういうところがあったのかもしれない、とわたしは彼女が発する波長から、なんとなくそんなふうに思いました。

 

 祈りの形式として文学を書くこと。これはたしかカフカの言葉だけれど、奥歯さんは祈りの形式として文学を読んでいたのかもしれません。そして大伽藍のような図書館を築くこと。だけど大伽藍の果てはからっぽで、そこに神さまはいなかったから、自分自身が神にならないといけなくて、でも奥歯さんがほんとうになりたかったのは、神の声を聴く巫女だったのではないかと、わたしは思うのです。

 

 おしゃべりな文学少女的ですね。こんな話。

 

 「二階堂奥歯は、2003年4月26日、まだ朝が来る前に、自分の意志に基づき飛び降り自殺しました」と書き残して飛んでしまった彼女。奥歯は虫歯に苛まれやすい場所。そして虫歯になってしまった彼女の気持ちを、すべて理解できたなんて嘘でもいえないけれど、自分にはまるで関係のないことだと断じることは、わたしにはなおさらできそうもない。

 

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、25)