甘美な書物、鮮烈な流星

 

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 わたしがアナイス・ニン書物と出逢ったのは、アナイスがその生涯にわたって綴りつづけた日記を書きはじめた年齢と、おなじくらいの年だった。


 『アナイス・ニンの日記』。

 

 小娘だったわたしは、そこに羅列された言葉の鮮烈さ、横顔をむける佳人の美麗さに、古城の奥深くに隠された財宝でも発見したような気持ちで目を瞠り、陶酔した。このうつくしい肉体と言霊をもつひとの精神の「城」のなかに迷いこみたいと思った。

 

 そしてわたしはいまでも、アナイスという迷宮のなかを彷徨っている。


 アナイスがけっして手放すことのなかった日記。

 

 彼女はそれを「麻薬」のようなものだといった。依存している。もうそれなしでは生きていけない。それがあるから、精神の均衡を保つことができる。日記への傾倒を医師から危険視され、その指示にしたがって少し離れただけで、苛立ちや不安感に悩まされ、自分自身が崩れてしまうような感覚に襲われてしまうほど、必要なもの。—―麻薬だ。


 アナイスが愛しい父との別離によって日記を綴りはじめたのは、十一歳のとき。

 

 両親の不和、そこから生じた破局によって、光射す庭の雛鳥のごとく安全な巣にくるまり守られていた彼女は、否応なく荒波のなかに放りだされた。

 父親に見捨てられた娘。壊れてしまった安全なゆりかご。あの幼少期には、もう戻れない。

 

 幼い彼女にとって父親とは、見あげるばかりの素晴らしいひとだった。

 音楽の神さま。頭上にいくつもの月桂樹の冠を頂く、偉大な王。

 だから彼女は、その「王」の娘として父にふさわしい「王女」であるようにつとめた。父に愛してもらえるように、やさしく頭を撫でてほしくて。

 しかし全幅の信頼を寄せていた「王」に裏切られ、王国は崩れ去った。

 落ちのびたさきの異国では、彼女はただの異邦人でしかない。


 アナイスは日記を綴りはじめた。

 

 恋しい父に宛てた長い手紙として、おのれが王女である誇りを忘れないよう文字と心に刻みつけるため、そして失ってしまった王国の国旗を日記のなかで蘇らせるために。

 

 永い眠りのような少女時代の孤独のさきに、春の目覚めがやってくる。彼女は女になる。

 

 1931年からの数年間、彼女の二十代の終わりから三十代の始まりを一冊の本としてまとめた『アナイス・ニンの日記』は、女となったアナイスの、人生でもっとも濃密で豊潤だった時間が凝縮されている。その夢の記録はおそらく、現実の記憶以上に美しいものだ。


 アナイスというひとは、一冊の甘美な書物みたいなひと。

 

 他人にとって彼女はまだ読んだことのない本のようなもので、それを手にとりたい、それに目をとおしたいと願って相手は彼女に近づく。

 

 彼女は拒絶しない。羽毛のような笑い声で相手を受け入れ、温かい心臓で抱きしめると、微笑みながら独楽みたいに回転して遠ざかってゆく。

 

 魔術とまやかし。

 

 自分という書物を相手に捧げるとき、相手も彼女にとって血が燃える素晴らしい本でなければならない。そうして互いに読みあう独特の関係を結ぶこと。そんな「書物」に巡りあうことを願っていた彼女が魅惑的な「書物」たちと出逢い、それに囲まれる喜びのなかで、夢中になって相手を「読んだ」幸福な季節が、『アナイス・ニンの日記』には記されている。


 アナイスというひとは、天体のまわりで輪を描く鮮やかな流星みたいなひと。

 神話的にやさしく穏やかな海王星である夫のヒュー。

 過去の疵であり、すべてのはじまりの父なる土星ホアキン・ニン。

 英雄で乞食で鬼神の太陽として、彼女を光のもとへと連れだしてくれたヘンリー・ミラー

 

 その星々を知り、見つめ、訪れ、呑みこむ。かれらを自分のものにする。それとともに蕾が花になり果実になるように、彼女も完成されてゆく。

 おかえしにかれらに捧げられるのは彼女自身。贈り物は愛の花束。けれども彼女は饒舌でありながら寡黙である、梔子の花。

 

 肝心なことはなにひとつ口に出さず、秘密は固く閉ざし、すべては紙のうえに綴る。彼女の心を誰よりも知っている日記、「麻薬」とまでいわせしめたその日記こそが、どの男よりも彼女に必要な友人、恋人、そして「神」だったのだと、わたしは思う。

 

 燃えるような愛と、黒いインクと、男たちの神酒からできている彼女の血。その血にこめられた祈りを理解し、受けとめてくれた日記。それは彼女自身を映す鏡。

 

 


アナイス・ニン/訳  原 麗衣  『アナイス・ニンの日記 1931~34―ヘンリー・ミラーとパリで』 ちくま文庫

 

 アナイス・ニン/訳 杉崎和子 『ヘンリー&ジューン』 角川文庫

 

 アナイス・ニン/訳 杉崎和子 『リノット―少女時代の日記 1914‐1920』 水声社

 

 

アナイス・ニンの日記 1931~34―ヘンリー・ミラーとパリで (ちくま文庫)

アナイス・ニンの日記 1931~34―ヘンリー・ミラーとパリで (ちくま文庫)

 

 

 

ヘンリー&ジューン (角川文庫)

ヘンリー&ジューン (角川文庫)

 

 

 

リノット―少女時代の日記 1914‐1920

リノット―少女時代の日記 1914‐1920