わたしは人形にはなれない

 

 


 川端康成書物にはじめて触れたのは、小学五年生のときだった。


 そのころすでに少女期を埋葬しようとしていた年上の従姉の本棚にならんでいる『古都』というその題名を見つけて、真似をしてこっそりお小遣いで文庫本を買い求めたのだった。

 

 子どもがまだ覗いてはならない世界に黙って足を踏みいれるような、甘美な後ろめたさを感じながら読みはじめたものの、残念ながらほとんど理解できず、そのときにはただ読み切ったことだけを自分の誇りとした。


 十代も半ばを過ぎたころ、もう一度その本を手にとった。

 

 小学生のころは、覚えにくい学術用語みたいな言葉を羅列しているとしか思えなかった文章を、うつくしいと感じられる年齢になったことを、わたしは自分に確認した。


 それとともに、わたしの胸は不意の日蝕みたいな影に覆われた。

 

 その影がかなしみであることに気づいたとき、目からは一滴の雫がこぼれた。その涙の意味が、そのときは自分自身もわからずに当惑した。しかし『古都』を読んで泣いたことは、記憶のなかに影として残った。


 それからさまざまな川端康成書物に出逢った。

 

 『眠れる美女』『日も月も』『みずうみ』『たんぽぽ』『虹いくたび』『雪国』……。読むごとにわたしのなかの影は濃くなった。かなしみは深まった。それがどうしてか、そのころにはもう理解していた。


 川端康成の綴る女たちは、この世に生きている人間ではない。

 

 その目はなにも見ていないし、なにかを突きつめて考えることもない。それは彼女たちには禁じられているのだ。彼女たちはただ、男の望むままに舞う空虚な人形のようで、黒子である男はその背後から彼女たちを観察している。男が操る糸は、女の長い髪であるのかもしれない。黒髪を摑まれた彼女たちは、そこから逃げだすことができない。逃げだすつもりもない。ただ男の腕に身をまかせて、意志も感情も不在の顔で、表情もなく舞いつづけている。


 その舞いがうつくしいからこそ、ひどくかなしい。

 

 わたしは彼女たちのようにはなれない。な「ら」ないではなく、な「れ」ないのだ。

 

 川端康成の小説をどこかで疎みながら、どこかで憧れてもいるのは、人形になりたいという気持ちがわたしのなかに潜在しているからなのかもしれない。その書物を読むたびに、わたしの胸は日蝕に遭遇する。かなしみが雪のように降りつもる。

 

 

 *川端康成書物に寄せて。

 

 

古都 (新潮文庫)

古都 (新潮文庫)

 

 

 

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

 

 

日も月も (1969年)

日も月も (1969年)

 

 

 

みずうみ (新潮文庫)

みずうみ (新潮文庫)

 

 

 

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

 

 

 

 

虹いくたび (新潮文庫)

虹いくたび (新潮文庫)

 

 

 

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))