淋しさと哀しみの座標軸

 

 

 わたしの座標軸は、いつもある日突然ねじれる。そうして愛するひとたちを戸惑わせてしまうから、ほんとうはそんなふうに乱れた姿を見られたくはない。なるべく自分のなかだけに閉じこめて、抑えこんでおきたい。魔物を飼いならすように。でもそれはきっと、わたしの愛するひとたちを淋しがらせてしまう行為なのだということにも、わたしはうすうす気づいている。だからわたしの課題は、この魔物をどうしたら「かなしいもの」ではなく「たのしいもの」として感じられるかということなのかもしれない。

 

 わたしはおそらく、好きなひとたちに自分の心を捧げたいという気持ちが強いのだと思う。いままで自分では漠然としてか意識してこなかったけれど、喜んでもらいたい、悲しみを食べてあげたいという気持ちが強くて、あんまり自分のことには気が回らないというか、自分自身に対して鈍いところがある。

 

 かなしいとかさびしいとか、あんまり思うことはなくて、けれどある日突然座標軸が歪んで、いきなり哀しくなる。淋しくなる。そうして泣いてしまう。それまでそんなこと、一滴たりとも思っていなかったのに、不思議なことだとわたし自身も感じるのだけど、もしかしたらわたしのなかにはかなしみやさびしさを溜めておくコップがあって、そのコップから水があふれるとき、泣いてしまうのかもしれない。透明なコップに水が注がれているあいだは、そのさびしさにもかなしみにも気づかずにやり過ごしてしまう。だからあとあとそれが洪水になったあとに気づく。こんなに淋しく、哀しかったのだと。難儀なものだと思う。

 

 そのさびしさもかなしみも、楽しめたらいい。いつだって笑っていたい。笑っているわたしだけ覚えていてもらいたい。愛するひとたちには。

 

 

 このようなことが、わたしの今年のはじめの日記に綴ってありました。年のはじめの決意表明もむなしく、わたしの座標軸は相変わらずです。そのうえでその「座標軸」にひずみが生じたとき、心をゆるしたひとを爪で引っ搔いてしまう猫のようなところが自分にあることに気づき、ほんとうになんとかしたいと思っています。わたしの「爪」はとても長くて、あんまりのばしていると反りかえってきて自分の肉に食いこむから、それが怖くて親しいひとたちを引っ掻いて爪をすり減らすような真似をしてしまうようです。この悪癖をすみやかに治してゆくこと。そうわたしの課題につけ加えなければいけないようです。

 

 秋の水に染みるような空気は、わたしのなかの淋しさと哀しみを呼び起こすのか、座標軸がゆらゆらしていけません。