ただ一度の接吻のために

 

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 彼女は穢れなき月の乙女。

 だから深紅の血を知らず、だから銀白に冷たい。

 その名はサロメ


 彼女は宮殿のなかに渦まく陰謀に見むきもしなければ、自分の言動がひとに及ぼす効果を省みることもない。

 

 彼女は孤高の王女だった。空に浮かぶ月のように、手の届かないひと。焦がれてやまずに手をのばしても、指先によぎるのは彼女の高貴な光だけ。掴むことはできない。触れることもできない。それゆえに彼女を愛する男たちの心は、焦燥と平穏につつまれていた。彼女は己のものにはならないが、かといって他の誰かのものにもならない。彼女がそれを望んではいないから。彼女がそれを望んでいないうちは。


 けれどもそこに、ひとりの預言者が現れた。

 サロメはその男に、太陽の希望を見た。

 

 希望とは、この男はほかの男とは異なるという確信のことで、そんな錯覚を「恋」と呼んだりする。月が恋をする相手がいるとすれば、それは太陽だけだ。

 

 そして太陽は、誰にも恋などしない。何者も受けいれることなく、何者も愛することなく、他者にむける絶対的な無関心を光線でつたえてくる。そんな男。その光の槍に皮膚を貫かれた人間たちは、やがてはその刃先が精神にまで刺さるのを恐れて、かれを牢のなかに閉じこめた。

 

 サロメはその男のなかに、希望を見た。


 しかし太陽を振りむかせることができるのは、「神」だけだった。

 

 いつも求められ望まれ、自らにのばされた手を冷ややかに眺めていた彼女は、今度はおのれが求め望み、手をのばす者となった。月は空から失墜した。乙女は女になった。無垢で残酷なまま。

 

 彼女は踊る。ただ一度の接吻のため。愛おしくて憎らしいただひとりの男の心が手に入らぬならば、せめて男の首だけでもわがものに。そうして預言すら告げなくなった、だから自分を拒絶する言葉も吐かなくなった預言者のその唇に、くちづけをするのだ。

 

 ヨカナーンの首をくださいませ。


 この物語をはじめて読んだのは、もうずいぶんむかしのことだけれど、そのころからいまでも、わたしにはこの「所有」の感覚、というものがいまひとつわからず、それがわからない自分というものに、女として決定的に足りないなにかがあるのだといわれているような気持ちになって、舌のうえに苦い味が広がる。読むたびにその味を噛みしめる。

 

 ちなみに福田訳も日夏訳もとっても好きだけれど、どちらかといえば、わたしは福田訳派かな。

 

 

 *オスカー・ワイルド福田恒存訳 『サロメ』 岩波文庫

 

 

 

サロメ (岩波文庫)

サロメ (岩波文庫)