神さまのいない月の朔

 

 

 ふと今年もすでに十月が巡っているのだという事実に気づきました。神さまのいない月です。去年のいまごろはこの神無月の朔日――新月の晩に、神とおなじようにお空に不在の月へと祈りを捧げるように、わたし自身に願うように眠りに就いたことを覚えています。わたしはその日、ある《少女》と約束をしていました。成就したいことはいつも希望として約束とはいわず、「これをわたしたちの《希望》にしましょうね」と微笑みかわす彼女との、貴重な約束のひとつでした。あのお約束からもう樹の年輪がひと巻きするほどの時間が経ったことに驚かされます。時間はいつもわたしたちのまえに、ひとつの呪いのごとき切なさをともないながら姿を現す。

 

 あの子との《約束》のことは、わたしの日記にこう綴られてありました。

 

 

 こんな夢をみた、ではじまる小説といえば、漱石の『夢十夜』です。

 

 夢とはそれをみた本人がどんなにおもしろく感じられる内容であっても、それを他人に話すとき、聞かされる相手がおなじように興味深く思うことは稀なことです。それはひどく個人的なものなのですから。

 

 しかしそこはさすが漱石で、彼のひとの語る十夜の夢は幻想のおもむきを帯びて、それを読むわたしを魅了します。

 

 漱石のように、とはいくら傲慢なわたしでも望みませんが、わたしがわたしの夢を誰かにお話するとき、それが一篇の小説のようになっていたら、こんなに喜ばしいことはありません。支離滅裂で不条理で、けれどもそこに深い意味が潜んでいる、そんな小説に。

 

 そういった祈りとともに、わたしは漱石に倣って「こんな夢をみた」からはじまる、ひとつのお話を綴ります。

 

 

 こんな夢をみた。

 

 それは十月一日の夜のことだった。

 

 わたしはその日、ひとりの少女の《鬼》を食べてあげる約束をしていた。

 

 《鬼》とは少女の肉体を巣喰い、少女に意地悪する悪鬼のことだ。少女はそれに苦しめられていた。そのために月みたいに白くてまあるい錠剤を自身の肉体に流しこみ、その《月》が少女を二重に苦しめていた。

 

 《月》と《鬼》

 

 十月の朔日は、月のない晩だった。

 

 だから少女の《鬼》を食べてあげるのに、ふさわしい日だと、わたしはまえまえから思っていた。

 

 少女は哀しいほどに少女だった。

 そしてわたしは悲しいほどに乙女なのだと、少女はいった。

 

 少女は自分をイヴだと打ち明けてくれた。

 わたしは自分はリリスなのだと告げた。

 

 イヴは祝福されている。

 楽園から追いだされても、だから罪びととなっても、息子がその罪の象徴となっても、それでもイヴは世界から祝福されてる。

 

 リリスは呪縛されている。

 アダムの最初の女でありながら《女》として失格だという烙印をおされた魔女。

 

 けれども祝福と呪縛とのあいだに、どれくらいの違いがあるかしら。祝いと呪い。とてもよく似ているわ。——そんな話を少女としたことがある。わたしたちは互いの祝福と呪縛を半分ずつ交換し、お互いのその力を弱め、強めた。

 

 そのことを想い出しながら、わたしは眠りに就いた。十月一日、この夜に夢のなかで、かならず少女の鬼を食べるのだと決意して。

 

 しかし夢のなかでわたしのまえに現れたのは蛇だった。

 

 わたしはすぐに悟った。あれはイヴを甘言で唆した、あの蛇だわ。

 

 少女の肉体に影のように忍びこみ、意地悪をしていたのは、《鬼》ではなく《蛇》だったのだと、はっきりと理解した。

 二匹いた。黄金の色をしていた。楽園の掟に背いてまでもイヴが手にしてしまった、あの誘惑の果実の色だ。

 

 この賢い生き物を、わたしはおそらく食べることはできない。少なくともいまは。それなら凍らせてしまおう。少女の「痛み」が潮のようにいっときでもひいてくれることを願って、わたしは二匹の蛇を雪で埋めた。氷結された蛇はその色を、黄金から白銀の雪の色に変貌させた。みるみるうちに縮んでゆき、とてもちいさな幼蛇のようになったそれを眺めながら、わたしは銀の指輪にすることを思いついた。

 

 ひとつは少女に。

 ひとつはわたしに。

 

 少女の蛇はピンクサファイアの瞳をしていた。

 わたしの蛇はトパーズの瞳をしていた。

 

 ふたりで指に嵌めた。

 

 少女は笑いながら白いワンピースの裾を翻して空に手をかざした。

 黒いワンピースのわたしは、その背中を微笑みながら眺めた。

 

 こんな夢をみた。

 

 目覚めたとき、いちばんに思ったこと。

 

 わたしは少女の《蛇》を退治できたのかしら?

 わたしは祈りつづけるわ。あなたに、そしてわたし自身に。

 

 

<蛇の足>

 

 サファイアの宝石言葉は慈愛と明晰。ピンクは可愛らしさ。かわいらしい《少女》は、愛情深く、しかしけっして自分自身を失わない聡明さをもっている。それがピンクサファイアの意味。トパーズの宝石言葉は、誠実、友情、潔白、希望。そう希望よ。太陽の石。あなたが手を空にかざしたさきにあるもの。わたしたち、お互いにおおきな希望を共有しているものね。なぜトパーズだったのかしらと不思議だったのだけど、あの夢の《乙女》にはこれ以上ないほどにふさわしい宝石だったのかもしれないわ。

 

 

 わたしの《少女》——乙女椿のあの子にわたしがはじめて綴ったお手紙は、このようなものでした。これをお見せすることであなたがたにも彼女がどのような《少女》であるか、すこしは伝わればいいのですが。

 

 

 拝啓、溺れる少女へ

 

 あなたの心には湖がありますね。ごまかしてもだめです。

 あなたの《お城》に招かれたる客人であるわたしは、その城で眠りに就くあなたをひと目見て、すぐにそのことに気づきました。

 

 わたしの愛する《少女》は、みんなそうなの。

 胸の内側に、冬の湖を隠している。凍てついて、白く透明で虹色に輝く、美しい湖を。その氷をすこしずつ融かして言葉にする。わたしはそんな少女が好きです。

 

 あなたとお話していると、わたしは塚本邦雄の歌を思い出します。

 

 《わが眼の底に咲く紫陽花を診たる醫師暗室を出ていづこの闇へ》というその歌は、短歌のなかでもわたしのとりわけ好きなものです。あなたの目のなかにはどんな花が咲いているのかしらね。

 

 世界は卵ね。生まれなかった雛、羽ばたけなかった翼。

 

 そこには燦爛と輝き腐食してゆく荒廃の黄身がある。葬られた時間が流れ出る「外側」はなく、儚くて脆くて頑丈な殻は、どうあっても割れることはない。鏡に監視された空中楼閣。どこからでも見とおせるガラスの小部屋。見つめる者をあちら側から見つめ返し、全身を透明に晒すもの。

 

 整然とした鏡は曇り、錆つき、罅が入り、砕け散る。そして循環する。紅蓮の火球のように口を大きく開けた死に食べられて、その「内側」の無に還る。あなたはだれ。わたしはだれ。答えはきっと、誰でもない者。――わたしたちきっと、生まれなかったひな鳥ね。

 

 世界の殻を破らなければ、ひな鳥は生まれずに死んでしまう。 小娘のころに、こんな言葉を耳にしたわ。わたしは息をしながら死んでいるのだと思いつつ、毎日生きていた。いまもそうなのかもしれないわ。

 

 わたしに出逢ってくれてありがとう。 またあなたの《お城》にお邪魔させてね。

 

 あなたの《乙女》より。

 


 乙女椿のわたしの《少女》が、ふと溜息を落とすように呟いた言葉がありました。わたしはそのことを、よく覚えています。

 

 「少女は空を飛べるの。乙女は夢を見れるの」

 

 そう、それなら彼女はたしかに《少女》なのでしょう。彼女はまだ自身の美しさを知らず、空を飛べない自分は少女ではないのではないかと悲しんでいる。それこそが《少女》のあかし。

 

 少女とは、まだおのれの美しさを知らない者のこと。そして乙女とは、まだおのれの穢なさを知らない者のことだとわたしは定義します。「まだ」というのが重要であり、だから「いつか」は知る。そのとき「彼女」は少女でも乙女でもなく、女になるのかもしれず、だから女とはおのれの美しさと穢なさを知る者のことだと、わたしは思うのです。

 

 それでゆくと、あの子がわたしを「かなしいくらいに《乙女》」だと、そういうのも頷けます。わたしはおのれを知らなすぎる。また、あの子もおのれを知らず、そのためにわたしたちは自分たちの背中に翅があっても、それに気づくことはないのかもしれないと切なく考えたりもします。わたしの翅は夢をみるための白い翅、彼女の翅は空をとぶための青い翅。

 

 「いつか」あのこの青い翅でともに空を飛ぶ。

 「いつか」わたしの白い翅でともに夢を見る。

 

 それがきっとわたしたちの《希望》となる。

 《女》とは誰よりも美しく穢ない女の象徴であり、わたしはその《女》になりたいのです。《女》になることを忌避し、嫌悪しつづけながら、それでも自分の穢なさを直視したいと祈る。それがわたしの救われるみちだと思うから。

 

 もうすぐ十月の新月がやってきます。

 その晩はまた、あの子のことを想ってきっと眠りに就きましょう。

 不在の神と月に祈りを捧げ、自分自身に願いながら。

 

 もしかしたらこの言葉の集積は、理解不能の暗号のようなものとしてあなたがたの目には映るのかもしれません。それでもいいのです。これはわたしの祈りと願いのかたちであり、祈りも願いもすぐに解読できるようなものではすこし、心もとないと感じていたところですから。