アムネシアという名の薔薇

 

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 アムネシア、という名の薔薇があるのだという。ほのかに淡くどこか儚く、透明感に満ちたうすく染まりはじめた夜明けの色のように美しい薔薇で、わたしはその花の存在を知ったとき、なぜアムネシア――「記憶喪失」という名前が授けられたのか、そのことにとても興味をそそられた。薄紫の薔薇の花言葉には、「誇り、気品、上品、王座、魅力、威厳、華麗」という意味があたえられている。そしてアムネシア……わたしはその薔薇を見たとき、ある少女のことを想いだした。未紀のことを。あの気高さという冠をかぶった王女のごとき美しい「聖少女」を。

 

 「最後の少女小説」と著者である倉橋由美子が初版のあとがきに綴ったことで知られる『聖少女』は、アムネシアという薔薇を狂い咲かせ、その花びらで《愛》の蜜を守ろうとした未紀という少女の観察記録を克明に記したカルテようでもある。

 

 未紀は幾枚もの花びらで仮面をまとい、自己を他者の目から晦まし、入念に「お化粧」をほどこしている。その皮膚の下にあるものを知っていいのは、たったひとりの男だけであり、その男をのぞいては誰にも「素顔」を悟らせないようにと、記したノートに白粉と香水をふるってみせる。ほんとうは自分がどんな少女なのか、韜晦させるために。おのれに呪文をかけて、その魔法によって自身を彫刻し、思い描いたとおりの女になるために。

 

 離れがたく癒着した仮面で、偽り、騙し、欺く。自分自身さえも。

 

 言葉と想像力のすべてをかけて《愛》の神殿を築き、情念の糸を操って少しずつその仮面を動かしてゆくこと。そして優雅に洗練された身ぶりで禁忌をおかすこと。それが彼女の愛、彼女の望むもの。

 

 インセスト

 神々の末裔、その戯れ。

 

 まるであの雪のように白く美しかった童話のお姫さまみたいな未紀。

 

 実母の毒を胞衣のようにくるまれ、父の娘として育ち、世界の掟に背いて父の女になり、母殺しの娘となる。そしてアムネシアという「ガラスの棺」で永い眠りに就く。彼女に目覚めのキスをもたらしたKは、彼女の王子さまとなれたのだろうか。答えは決まりきっている。彼女のなかで巨人族のようにおおきな存在として君臨していたのは、たったひとりの男だけなのだから。その男の面影を、彼女は自分のなかの神殿に祀って生きてゆく。聖女として。

 

 死にきれなかった以上、生きのびてしまった以上。そして薔薇は散る。愛が枯れてしまった以上、もう蘇生することがない以上。

 

 これは「父の娘」の物語であるのと同時に、「母殺し」の系譜につらなる書物でもある。

 

 

 倉橋由美子『聖少女』 新潮社

 

 

聖少女 (新潮文庫)

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