かぐや姫の月のまえに

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 昨夜は中秋の名月にむけて、おつきさまの手紙を綴っていました。かぐや姫の月の日には大好きなひとたちと月世界でも口に運びながら、ほのかに溶けてゆく甘さのなかであの化粧箱に描かれた兎を月に探してみたいけれど、それもなかなかむつかしいので、せめてお手紙を書いて、美しい香りのような気配としてあなたのそばにいることができますように。そう祈りをこめて。

 

 かぐや姫が月に還ってしまった日の月は、今年はどのような表情でわたしたちのまえに出現してくださるのでしょうか。


 幼いころからわたしは、かの月の姫に羨望を抱いていました。なぜなら彼女には、月という帰還すべき《故郷》があるのだから。この青い星に生まれたにもかかわらず、いつも漠然と「どこかに帰りたい」と祈っていたおのれの後ろめたい疚しさと、「どこか」を切に願っているのにそれがどこだかわからない(だからどこにも還れない)失望は、十代のころのわたしのおおきな球体にも似た切なさと哀しみでした。

 

 わたしはそのころ、自分をこの世界の孤児だと思って生きていました。そう感じているのはきっとおのれだけではないのだとわかる程度に大人になったいまも、その気持ちが変動することはなさそうです。

 

 かぐやひめは月の罪びと。その罰として、地球へと派遣された。それならばどんな咎によって、わたしたちはこの青い星に生まれてきたのだろうと、ときどき考えます。誰もが迷子となり、孤児となるこの世界に。

 

 もしかしたら遠いむかし、わたしは雪女だったのかもしれません、とこのようにとち狂った妄言のなかを酔歩するには、以前友人から聞いたこんな話を披露しなければいけないようです。


 雪女の正体は雪の精だといわれたり、あるいは雪のなかで行き倒れになった女の霊であるなどと様々な伝承があるけれど、ある地方の説話では、雪女はほんとうは月世界の姫であり、退屈な生活から抜けだすために雪とともに地上に降りてきたが、月へ帰れなくなったため、雪の降る月夜に現れるのだと、そんな話を。

 

 たしかに雪には月と共通する冷ややかさと美しさがあります。月に帰れなくなった雪女。還れなくなってしまったから、いつまでも雪のなかを彷徨っている。彼女もまたこの世界の「孤児」なのでしょうか。


 “いづくへか帰る日近きここちして この世のもののなつかしきころ ”

 

 与謝野晶子のこの歌を、わたしは気がつけば呪文みたいにくちずさんでしまう。そしてそのたびにこの胸を締めつけるのです。「いづくへか」という夢の翼で《鳥籠》から飛びたち故郷に還ること。小町娘のレメディオスも、アンナ・カヴァンも、左川ちかも、ホリー・ゴライトリーも、小野小町も、斉木杉子も、二階堂奥歯も、矢川澄子も、その「祈り」の根源的なものは、みな共通しているようにわたしには感じられます。彼女たちの誰もが「かぐや姫」になりたかっただけなのではないかと、わたしには思われてならないのです。彼女たちが《月》に帰還できたのかは誰にもわからない。けれどもわが身を振り返り、未熟者のわたしが「いづくへか」に回帰するのはいつのことかしらと考えたとき、果てしがなくて眩暈すら感じてしまいます。

 

 いつか「いづくへか」に帰ることができたらいい。世界の孤児であり、だから自分の起源を探しつづけるわたしたちが、この青い星で、求めていた人に、場所に、空間に、言葉に出逢い、そうしてそこに《故郷》が見つかればいいと思う。この星で。

 

 わたしたちは《月》に焦がれつづけてきました。あの完全な円のなかに還ること。それがいつだってわたしたちの祈りでした。月に帰りたかった。でもわたしが《月》に還るのは、まださきのことだ。ずっとずっとさきのこと。それでいい。そうでありたい。わたしはこの青い星で、生きると決めたのだから。あなたのそばで。あなたたちのそばで。だから中秋の名月の日は、月を眺めながらきっと愛するひとたちのことを想います。