宇宙人の娘と呼ばれて

 

 

 「きみはまるで宇宙人の娘みたいだ」
 
 多感なころに、そんなことをいわれたことがある。

 どんな惑星からこの地球にやってきたのかも知れない、異星の生き物のような小娘が、なにやら自分には理解しがたいことをしゃべっている。きっとその程度の意味に過ぎなかったのだと思う。

 

 けれどもそういわれたことが、いまでもわたしの胸に棘のように刺さっていて、わたしに「正体」というものがあるとするなら、それを見事にいいあてられてしまったような、満座の席で致命的な失態を犯した犯罪者になってしまったような、あの言葉を思いだすたびに、そんな気持ちに襲われる。

 

 ふと、わたしは宇宙人なのではないかと考えることがときどきある。あれから時間がすすんだ、いまとなっても。

 

 自分と相手とはおなじ母国語を共有している。おなじ「言葉」、おなじ「人間」。それなのにわたしの話していることが、「わたし」という人間が相手にまるで「理解」されていない、わたしも相手を「理解」することができない。そんなときふと、自分は宇宙人なのではないかと感じることがある。

 どうしても「言葉」が通じない。どうしても「意志」が疎通しない。

 

 自分が悪いわけではなく、まして相手が悪いわけでもない。ただ、決定的にわかりあえない。

 

 そんなとき、心に疑問という影が射す。――——もしかしたら自分の故郷は、こことは異なる遠い星なのではないかしら。 

 

 もちろんそれは、一種の逃避に過ぎない。だからとても罪深く、後ろめたい思考なのだと、わたしは自分を戒めてきた。しかし木地雅映子の『氷の海のガレオン』を読んだとき、自分のそんな自分の気持ちをかなり正確に代弁してもらっているように感じ、「宇宙人の子ども」でもいいじゃないか、と書物が慰めてくれる声が聴こえた。

 

 

 語り手である十一歳の斉木杉子は紛れもなく「宇宙人」の娘であり、しかしそれを隠そうともしない。当然ながら世界は彼女を排除しようと迫害する。彼女の孤独ゆえに培われた毅然とした誇り高さは、「異なる星」でおのれを殺さず生きてゆくための矜持。わたしはわたしよ、と気高く貫かれた美意識によって彼女はけっして自分自身を偽ることをしない。

 

 現実に青い血が流れているわけでなくても、月や火星や金星に出生したわけではなくても、「宇宙人の子ども」は世界に少数ながら存在していて、彼ら、彼女らの言動は傍目には奇異に映ることが多く、すぐに正体が暴かれてしまうから、そうして排斥という名の魔女狩りがはじまるから、それが嫌なら寡黙になるか擬態するしかなく、その果てに「歪み」と判断されたものは研磨され、いささかでも迎合できるようになったとき、はじめて「宇宙人」は「人間」として認められる。おめでとうございます、あなたからは異常は発見されませんでした。本日からニンゲンを名乗ることがゆるされます。

 

 ――——いいえ、わたしは人間でなくてもかまいません。あなたたちの都合のよい「形」に自身をつくりかえ、自分のもつ価値を棄ててまであなたたちの気に入る「人間」になろうとは思いません。そう宣言するように、おのれが「宇宙人の娘」であることに誇りをもち、隠そうともしない少女の物語がそこには綴られている。


 世界が彼女を排除しようと迫害するのは、当然のことだ。多数決に敗れた者は異物なのだから。異物はとりのぞかなければいけないのだから。それは白い羊の群れに一匹の黒い羊が紛れこむようなもので、まわりの羊がすべて白かったとき、「黒い」というただそれだけでその存在は紛いものにされてしまうのだから。

 

 だが、「わたしは紛いものではない」と彼女は自分を恥じることはない。孤独ゆえに培われたその毅然とした誇り高さは、「異なる星」で自分を殺さず偽らずに生きてゆくためのすべなのだろう。

 

 もしもわたしが宇宙人の「娘」なのだとしたら、本書の主人公は「プリンセス」だ。その気高さに、わたしは憧れてやまないのです。

 

 

 

 *木地雅映子『氷の海のガレオン』 講談社

 

 

氷の海のガレオン

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氷の海のガレオン/オルタ (ピュアフル文庫)

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