夜の海をおよぐ、貝殻みたいな白い月

 

 

 

 白い貝殻みたいなおつきさまが窓辺から見えます。

 

 貝殻という言葉のなかに白く閉じこめられた観念に想いを馳せるとき、わたしはなんだか哀しくて切なくなる。荒れ果てた海辺に散らばった貝殻たちは、永遠などどこにもないという事実を証明するように終わってしまった愛の、その記憶を結晶化させ埋葬したお墓のように感じられてならないのだけれど、そんなふうに思うのはわたしだけなのかしら。

 

 貝殻、というその《お墓》はつがいのように口をしっかりと閉じあわせて結びついていた相手を喪った残骸のようで、片翼を失くした鳥のようで、その欠けてしまった美しさにあらゆる喪失の甘さが潜んでいる。

 

 甘さ、とわたしはいいました。たとえばコクトオにこんな詩があります。

 

 

 “私の耳は 貝の殻 海の響きを懐かしむ”

 

 

  これは喪った記憶を謳ったものだけれど、失われた愛というものはもうどうあってももとどおりの光沢さを取り戻せないことがわかっているからこそ、それはときとして甘さになることもあるらしい。それを「甘さ」として片づけることのできない者たちだけが、苦い痛みを抱きながらたったひとつの《愛》を信じて祈りつづける。貝殻たちは祈っているのかもしれないと、わたしは思ったりする。散らばった貝殻たちは海のなかを彷徨いながらもう一度《愛》が恢復することを祈り、半身を求めるようにかつては完全だった自分のもうひとつのかけらをさがしているのかもしれないと。

 

 夜の海に浮かぶあの月が貝殻ならば、わたしはなおさらに哀しくて切ない。おつきさまは世界の、ただのひとつの玲瓏な瞳。自分自身の潮の流れのなかで満ちては欠けることを繰り返し、たゆたっている天体。真夜中を流離う月が、おのれの「半身」に出逢うことはおそらく、けっしてない。そして月はそれを、きっと知らない。知らないからこそ、月は自殺することもなく今宵も――そして昨日も明日も変わらず空に浮かぶことができるのかしら、とそんなことを考えている。欠けた疵をおのれで満たし恢復してしまうかぎり、あんなにも焦がれている「誰か」が彼女の(月はきっと女性だと思う)のまえに出現することはないだろうと、どうしてかわたしはそう感じて切なくなる。半身を求める半月も、細い両腕をのばしてなにかを乞う三日月も、時間とともに癒され彼女はおのれの力で完全な円となってしまうのだから。だから、とわたしは思う。彼女の謳う愛には永遠があり、ひとはそれを夢みて月を愛するのかもしれないと。

 

 夜の海を彷徨い、欠けては満ちる《愛》のゆくえのなかで「永遠」という言葉のゆくすえを形にしようとしている白い貝殻のような今宵の月に耳を澄ませばきっと、失われることのない愛の唄をを波の音のように聴かせてくれる。今夜も妄想の綿飴を食べながら、そんなことを考えるのです。