生霊

 

 

 わたしたち六条御息所の話ばかりしていますね。

 

 現代の光の君であるところのあなたにとっての六条御息所は、あなたを愛で釣りあげることには失敗してしまったかもしれないけれど、それがたとえ畏怖からであったとしても、あなたの記憶に忘れがたい女のひとりとして刻まれたのだから、それは視点を変えてみれば、幸せだといえるのではないでしょうか。あなたは自分で覚えていたいことさえ忘却してしまうようなひとだから、とくにわたしはそう思うのです。

 

 ローランサンもいっています。もっとも哀れなのは、忘れられた女なのだと。

 

 「忘れる」というのは現世的な哀れさだし、忘れられたほうは自分でそれがわかってしまうかもしれないだけに、やりきれないものがあるのかもしれない。わたし自身は「忘れられる」ことへの恐怖というものはあまりないから、これはただの想像に過ぎなくて、そして想像には限度があるから、自分の引力圏内に愛した男を、たとえその愛が枯れても引きとめておきたいと望むひとの気持ちを完全には理解することはできません。

 

 だからきっと、六条御息所の気持ちも、ほんとうの意味でわたしが理解できる日はこないと思います。

 

 あなたはいいましたね。

 

 情念そのものになった女の恐ろしさからは逃れられないと。美しくて哀しくて、伸ばされたその手を振り払うことはできないのだと。だからいつの日か自分は生霊にいのちを奪われてしまうかもしれないと。

 

 でもね、わたしはそうは思わない。

 

 六条御息所のことをいえば、彼女がどんなに苦しんでも、その生霊は源氏本人ではなく、源氏に愛される女たちにむかうのだから。これが女と男の違いなのでしょうね。男のひとが彼女とおなじ気持ちになったとき、彼らが害したいと思うのは恋した相手になるのではないかと、わたしはなんとなくそう感じます。

 男のひとはね、自分が心を傾ける相手を、傾けた心のぶんだけ密かに憎んでしまうのではないかと、そんなふうに思うのです。そして女は、傾けた心の角度のぶんだけ希望を抱いてしまう、そういう生き物なのではないかしら。

 

 あの女さえいなければ、あのひとはわたしのもとに戻ってくるかもしれない。

 (いいえ、けっして戻ってはこない)

 

 内心ではすべてを把握し、了承していてもなお、決定的な破滅を迎えるまで希望を捨てることができない。その最後の希望が潰えるときが、「愛」が死ぬとき。燃え尽きて黒焦げになった二文字の母音は、時の流れに吹かれて風葬される。

 

  だからね、きっとあなたに生霊が憑いたりすることはないと思うの。女はいとしいひとを殺めたりはできない。きっとそういう生き物だから。

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、19)