蝶は飛びながら夢をみる

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 「幽霊になった男の話をしよう。」

 

 内田善美の『星の時計のLiddell』はそんな引力のある言葉からはじまる。

 

 夢に囚われ、夢に愛された男。碧い星みたいな瞳をもった、ヒュー・V・バイダーベック。死を呼吸するような夜毎の眠りに出現しては、かれを誘う屋敷、花、そして少女。薔薇の匂いが、金木犀の香りが、詩を謳うように囁きかけてくる。

 

 「あなたの居場所はこちらよ」

 

 世界にはさまざまな不思議なことが起こるから、毎夜おなじ夢を見て、この現実でなく眠りのなかに精神が棲んでしまうような、そんな運命の下に生まれたひともいないとは限らない。

 

 かれの瞳のなかの星こそが、かれの故郷であり、瞼を閉じたときほんの束の間、かれはそこに「還る」ことができた。

 

 この世界の異邦人。

 

 あまりにも無垢なその魂を自由に羽ばたかせて、かれはいってしまうだろう。誰を泣かせても、誰も止めることなどできない。呼び声にこたえて、その背中にある翅で星まで飛んでいってしまうだろう。この地球の外側に、自分の星に。

 

 かれはきっと、人間になる夢を見る蝶なのだから。

 そうしてかれは幽霊になろうとしているのだから。

 

 行かないで、往かないで、逝かないで。どんな言葉も、かれを振りむかせることはできない。かれは恋をしている。碧い星のなかにある家に、そこで自分を待つ少女に。

 

 恋が叶ったとき、蝶はもう人間になる夢を見ない。

 

 幽霊は彼岸に旅立ってゆく。妖しく美しい夢に、自らの魂と「未来」を捧げて。けれどもかれの「過去」は此岸にいる者たちのものだ。手を離したとき、やさしくてかなしい記憶は永遠に溶け、思い出はどこにもいかず、かれは眩ゆく笑いかけてくる。あの日のままで。

 

 その姿を瞼の裏に閉じこめて、人間たちは生きてゆく。現実のなかで。誰もが蝶になれるわけではないから。

 

 緻密で濃密で繊細な世界に、わたしはいつだって泣いてしまう。ヒューの心のように、この物語がとても、うつくしいから。そしてこの書物が必要なひとのもとに届きますように、と読むたびに祈らずにはいられない。

 


 *内田善美星の時計のLiddell』全三巻 集英社

 

 

星の時計のLiddell (1)

星の時計のLiddell (1)

 

 

 

星の時計のLiddell (2)

星の時計のLiddell (2)

 

 

 

星の時計のLiddell (3)

星の時計のLiddell (3)