蛍火

 


 蛍。わたしはね、おのれの愛を淡く静謐な光だけでつたえようとするあの生き物をいとおしいと思います。まるで怨嗟のような声をあげて相手を自分に振り向かせようとする、呪いのような蝉の求愛のしかたをおぞましいと思います。


 もちろん、蝉に罪などありませんね。だってそれが彼らの愛の形で、彼らにはほかに想いを告げる手段がないのだから、しかたのないこと。そして蛍と蝉と、どちらの愛が傍目に美しく見えるとしても、それはどちらの愛がより優れているかということにはならないと思います。愛に勝ち敗けなんて、きっとないはずだから。

 

 蛍には蛍の、蝉には蝉の、それぞれに二文字の母音の意味があるのでしょう。

 

 蛍の愛というと、わたしは和泉式部のことを思いだします。

 

 「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」という、わたしの憧れそのもののような歌を紡いでくれたひと。蛍が碧い光を放ちながら飛びかうさまを眺めて河原で放心していると、宙を漂っているその「愛」が、まるでおのれのからだから抜けだした霊魂のように感じられて、空間を彷徨っているそれが、いとしいひとのもとに辿りつくことができたなら、というあの歌へのあこがれ。

 

 子どものころに蛍狩りに行ったとき、その憧憬がわたしのなかで結晶化し、辿りつきたいいとしいひともいなかったにも関わらず魂を飛ばそうとしたことがあります、といったなら、K、あなたはわたしの相も変わらず発揮する馬鹿げた繰り言に呆れられますか? それともおもしろいと笑ってくれるでしょうか。

 

 あなたならばたぶん、後者であると思うから、わたしはこんな話も打ち明けることができるわけです。
 
 心をダイヤモンドのように無色透明にして、瞑想するように目を閉じたなら、魂だって飛ばせるのではないかと、幼心にわたしは考えたのでした。しかしいくら待ってみても、わたしはわたしのまま、肉体という器に精神という枷は残されたままでした。

 

 話は変わるようだけれど、まえに六条御息所のお話をしましたね。突然ですが、あなたは彼女を不幸なひとだと思いますか?

 

 男を愛し、その愛の慟哭のために、その愛の放電のために、自分自身を見失って日常から乖離し、生霊となって恋敵を苦しめ、ついには殺めてしまうというような、彼女が生きながらに見た地獄を憐れだと思いますか?

 

 わたしはどうしてもそんなふうには思えないのです。

 

 むしろ彼女は、とても幸福なひとなんじゃないかしら。なぜならばそこまで愛することのできるひとに、巡りあえたのだから。

 

 わたしは六条御息所みたいな生霊にはなれないでしょうし、和泉式部みたいに霊魂を飛ばすこともできそうにはありません。魂を扱う才能が、わたしにはないのね、きっと。

 

 こんなお話をしていると、二枚の絵画がわたしのまぶたの裏に浮かんできました。どちらもゴッホの絵です。「星月夜」と「星降る夜、アルル」。

 

 「星月夜」に描かれているのは六条御息所の内界のようだと思ったのは、いまとっさに考えついたことです。発狂した星たちが黄色に燃えながら、すさまじい勢いで襲いかかってくるのではないかと危ぶむようなあの絵は、彼女の狂気です。異様に青い空間のなかに渦巻く、月よりも妖しい星が原初の輝きのように発狂して、その夜が永遠につづく。それは喜びと悲しみの狂気なのです。愛を知ってしまった喜び。愛を知ってしまった悲しみ。

 

 そして「星降る夜、アルル」は和泉式部のあの歌の風景みたい。あの絵の星たちは蛍となって霊魂となって、いとしいひとのもとに飛んでゆくのです。でもそこには不安を抱かずにはいられないなにかがある。そう。その星がいつ発狂してしまうかわからないような、哀しい予感。

 

 蛍の愛にどことなくかなしみを感じるのは、その碧い光がいつか青白い火となって、身を焦がす恋心とともに跡形もなく燃えてしまいそうな、そんな狂気のかげを感じるからでしょうか。

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、18)