「誰でもない」彼と彼女

 


 フェルナンド・ペソア

 

 誰でもない者。

 

 いくつもの異名と無数の生を航海したひと。この世界の異邦人となるために自分すらも他者とし、空から地上を見おろす一羽の鳥のように、その視線を浮遊させ俯瞰すること。だから彼は原稿しか入ってないトランクを片手に土地を移動し、旅をする。すべては頭のなかで。意志も感情も「不在」とすることこそ、彼の記録。ひとり遊びを横断しながら、ふときまぐれに私たちの前に現れるペソアはいつも、色も匂いもなく透明だ。彼はポルトガルの海となり、雨となり花となり、また海となって、原初の生命へと還る。

 


 エミリー・ディキンソン。

 

 誰でもない者。

 

 このひとが暮らすのは、固くとざされた鍵のかかった小部屋。そこに自らの肉体を幽閉している。しかしその精神は、鍵穴から自由に内と外を出入りすることができる。彼女だって知っている。「外」は美しい色彩にあふれているということ。空の歌、花の唄、風の唱、土の詩。その声に耳をかたむける彼女は小鳥。その心は、どこまでも高く宙のかなたを飛び、その場所から世界を俯瞰する。そこで囀ったものを言葉にし、また鍵穴から「内」に戻る。そして窓硝子のむこうに囁くのだ。「わたしは誰でもない人! あなたはだあれ?」


 わたしは「誰でもない者」が好きだ。

 

 かれらにとって肉体とは半透明の幽霊か亡霊のようなもの。精神を容れておくための器でしかない。


 文学的な多重人格者であったペソア

 彼がもったいくつもの「人格」である異名。

 

 彼は述べる。——「私は存在しない」

 

 なぜなら《私》は多数に増殖しており、私はいくつもの《私》に肉体を貸し、そうしているあいだにこの《私》は消えてゆこうとしているのだから。もうすぐすべての終わりがくる。《私》が私でなくなるときが。そもそもこの私さえ《私》とはかぎらない。《私》とはいったい誰なんだ? 私の名前を教えないでくれ。それは《私》をこの世界に縛りつける呪いだ。私が何者かは《私》が決めることだよ。そう、私とは、「誰でもない者」なんだ。


 その存在そのものがひとつの詩だったディキンソン。

 彼女が閉じこめた「自己」という肉体。

 

 彼女は問う。——「あなたは誰?」

 

 私は誰? 貴方は誰? 窓硝子越しに眺める世界。そこに反射しながら映る、《私》は誰? いいえ、答えないで。《私》に考えさせて。誰かが私に囁くの。この目で見たもの、観たもの、視たものを、すべて言葉にしなさい。感嘆符は吐息に、疑問符は溜息に、《私》の頭で思考したことを、すべて文字に記しなさい。あるとき、あなたはおのれのなかに空洞を見るでしょう。そうしてからっぽになったあなたは、そう、「誰でもない者」なのよ。


 かれらの言葉は底知れず静謐に、この《わたし》の胸を抉る。なにか、暗号のような秘密が隠されている。

 

 愛に焦がれ、夢に焦がれ、詩に焦がれ、無垢に焦がれ、人間に焦がれ、世界に焦がれる。それが自分には、けっして降ってこないと、かれらにはわかっている。恵みの雨が天から降ってくることはない。ただゆるやかに、枯れてゆくだけ。その絶望が滲む。

 

 世界を、他人を、自分自身さえ、遠くから眺める。人生とはかれらにとって、果てしない距離に隔てられた外界だった。

 

 だからかれらはいう。自分たちは、無色透明の幽霊であり、亡霊だと。

 

 

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

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ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選 (ポルトガル文学叢書 (2))

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不安の書

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対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

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ディキンスン詩集 (海外詩文庫)

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対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

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ディキンスン詩集 (海外詩文庫)

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わたしは誰でもない―エミリ・ディキンソン詩集

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ディキンソン詩選 (研究社小英文叢書 (188))

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