置き去りにされた昨日

 

 

 すべては終わったこと。背後に置いてきた景色。けれどもふと振り返ったとき、それはいつでも聳えたっている。黒と白の記憶の廃墟。たしかに存在するのに輪郭のつかめない、時とともに少しずつ様相を変えて、触れるとあとかたもなく消えそうな過去。その内部に潜んでいる謎を紐解こうとして手がかりを探しているうちに発見した蜘蛛の巣も、宙を舞う埃も、いまは意味のあるものに思える。だけど亡霊たちの眠りを呼び覚まして謎を求めても、それが解決することはない。そこに意味なんてない。置き去りにされたのは過去ではなく、自分のほうだったのだから。


 パトリック・モディアノが構築する世界はいつだって、なにか重大なことが起こってしまったあとから、言葉がはじまる。

 

 本来物語とは、現在進行形で語られるお話のなかに読み手の意識を投じさせ、「どうなるかわからない」という期待と不安のなかで「出来事」を積み重ねてすすんでゆくものだ。しかしモディアノのそれは異なる。かれの「出来事」はすべて、過去にあるのだ。それはもうけっして変えることのできない「きのう」であり、その過去に置き去りにされた「きょう」という現在から、「出来事」が起こっているときには、なにがおのれの身に生じたのかわからなかった語り手が、あらためて在りし日を回想し、そうして解けなかった謎を溶かしてしまおう、という試みのもと、モディアノの物語ははじまる。

 

 たとえば、『さびしい宝石』はこういう一文から「物語」がひらかれる。

 

 
 “〈かわいい宝石〉と呼ばれなくなってから、もう十二年ほどが過ぎてしまっていた。”

  


 「かつて」語り手は、かわいい宝石と呼ばれていた。十二年まえからそう呼ばれなくなった。なぜ? という過去の「謎」の提示を冒頭にもってくる。モディアノの小説はすべて、そんなふうにはじまる。それは多くの場合、《失踪》として姿をあらわす。愛の欠落を教えてくれた母の、想っていた恋人の、憧れていた娘の《失踪》の謎。なぜあのひとたちはいなくなってしまったのか。《永遠のくりかえし》のように、語り手は自分自身に問いかける。けれども答えはでない。謎は解けない、溶けない、説けない。

 

 あたりまえじゃないか、とモディアノは囁く。氷解する「謎」がこの世にいくつある? 謎は謎のまま。それこそが美しいものを永遠化する手段じゃないか。過去というミイラを抱き、愛し、朽ちてしまえばいいのだ。白い骨がすこしずつ琥珀色に染まってゆくように、過去は枯草色に朽ちてゆく。すべては過ぎ去ったこと、「きのう」のなかに置いてきた景色。しかし自ら望んで「置いてきた」のではない。だからいつまでもまえには進めない。かれらは気づいていない。「あした」に置き去りにされて、いつまでも「きょう」のなかにとどまっている自分自身を。

 

 そう、モディアノの小説は、「置き去りにされた者」の視点を綴る物語だ。愛に、未来に、街に、時間に。

 

 かれらを「置いていった者」がなにを考えていたのかという事実は語られることはない。しかし『失われた時のカフェで』という書物のなかで、語り手が焦がれたルキという娘の《失踪》は、こんなふうに綴られている。

 


 “逃げ去る時、誰かの前から消え去っていく瞬間にだけ、私はほんとの私自身だった。私のいい思い出はみんな、消え去った、逃げ去った思い出、それだけだった。”

 

 
 わたしはどうしても、この言葉を忘れることができない。わたし自身もおなじようなことを考えたことがある。「逃げ去るときだけ」「ほんとうの」自分自身がおもてにでる。ほんの一瞬だけ。それは誰にも見せたくないと望んだ、わたしの心にある花びらの最奥の《顔》。ルキのいうことは、わたしにはよく理解できるように思われる。

 

 湖面の月をつかまえることができないように、ルキもまた、誰のものにもなることはない。誰のものにもなれない。そうして「かつて」の彼女の姿を回想するたびに、それは記憶ではなく幻想になってゆく。《永遠の繰り返し》。


 過去とはすべて、まぼろしなのかもしれない。現実に起こったことなんて、実はなにもなかったのかもしれない。おのれの頭がつくりあげた虚構。モディアノの書物は、そんな疑惑をいつも柔らかな棘として、わたしの胸に刺してゆく。

 

 

 パトリック・モディアノ/白井成雄訳 『さびしい宝石』 作品社
            /平中悠一訳 『失われた時のカフェで』 作品社

 

さびしい宝石

さびしい宝石

 

 

 

失われた時のカフェで

失われた時のカフェで