金魚

 

 

 K、あなたが金魚に魅せられていることは、わたしもよく知っています。

 

 そしてあなたにとって「金魚」といえば、室生犀星が『蜜のあわれ』のなかで綴ったあの少女であることも。

 

 あの金魚にどうしようもなく惹かれる反面、おなじじくらい強い恐怖も感じるのだと、あなた。あんなに無邪気で怖い理想の女性像を描いてしまうなんて犀星のすごさをあらためて実感するし、あの少女が「理想」でありながら「無邪気」であるためには、なんとしてでも金魚でなければならなかったという、そういうお話。


 華美で儚くもありながら、突きつめてゆけばフランケンシュタインの化け物的なグロテスクさも内包している金魚。


 興味のないものに対しては酷薄になれる「少女」だからこそ、あの金魚の無邪気さは際立つのだというあなたのお話を聞きながら、無邪気とは冷淡であることだといった、わたしの言葉もあながち間違いではなかったのだと的外れなことを口走らなかったことに、ひとまず安堵しました。

 

 あの金魚ちゃんが無邪気だなんて、わたしは考えたこともなかったけれど、そういわれてみれば無邪気以外の何者でもないように思えてきます。


 でもね、『蜜のあわれ』は男のひとの理想が描かれているのと同時に、これ以上ないくらいに女の理想でもあるのだと、そんなことを思ってしまうわたしです。あなたはあの金魚に畏怖を感じるのかもしれないけれど、わたしはおなじものを、あの作品の老年の作家に感じてしまうから。


  たとえば文学作品に綴られた「恋」のなかで女が信じがたいほど無邪気でいられるとき、それは神さまのような男が絶対に自分を手離さないことを充分に承知しているときで、男が神さまでいられるのは、そんな女を愛するというよりもペットのように愛玩しているときなのだと思うのです。

 

 ひたすらに可愛いだけだから、嫉妬も束縛もない。ぬくぬくと自由にくるまっている彼女を、寛大な神さまの眼差しで見守ることができる。

 

 だからそれはこの世の愛ではなく、天上の愛なのだと思います。ずっと愛玩されるだけの存在でいられる女はきっといないし、神さまでいつづけられる男もたぶんいないから。

 

 こんなお話をしていると、幼いころの夏祭りを思いだします。

 

  あのころ、金魚すくいの桶のなかで夢幻の象徴のようにひらひらと泳ぐ紅い魚のようになりたくて、浴衣をひらひらとさせながら、その青い水のなかを胸をときめかせて見ていたものでした。

 

 あの子がほしい、この子がほしいと花いちもんめのようなことを考えながら、連れて帰ったらすぐに儚くなってしまうに違いないから、想像しただけでかなしくて一度も金魚すくいをしたことはなかったけれど、あんなに夢中になってしまう燃えるような火の色をしたその魚が女になったなら、それはとんでもない妖女になるに決まっています。

 

 その女の思うままになりながら、実は子どもの目線でいっしょに遊んであげている大人のようなあの男も、だから神さまなのだとわたしは思ってしまうのです。

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、16)