幻の女

 

 

 ある方からPOLAのフレグランスボディシャンプーのCasablancaとRoseを贈っていただく機会に恵まれてから寝台に入るまえのわたしは、百合か薔薇のにおいを纏うことが多くなった。


 Casablancaは百合の香り。

 この眠りを誘うように甘く、骨に響くように切ない香りがあたりを漂うと、わたしはいつも山川登美子の歌を想い出す。

 

 《髪長き少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ》

 

 そのむかし、この白百合の乙女に対する憧れから、ゆりの石鹸を愛用していたこともあるわたし。

 

 彼女は一輪の白百合を差しだす。

 これがわたしです、と彼女はいう。

 それは真珠色の花びらと黄金の蜜の芳醇さに染まって、清らかな少女の皮膚の匂いのような芳しさで、白い香りを放っている。静かな湖畔に美しい波紋がひろがるように。なにかを暗示するように。

 その花は彼女の心だ。

 ほんとうは紅い花になりたかった、けれども新雪のように一点の染みもなく、月のように穢れなく白くありつづけた、あまりにもやさしい彼女の心なのだ。

 

 このCasablancaを纏うとき、わたしは乙女のやさしさをわけてもらったような気分になる。

 

 Roseは薔薇の香り。

 まるで少女の心のように、迷宮のなかの螺旋階段みたいに複雑な花。だからその香りは、その少女のためにあらゆる秘術をもちいて錬金術師が調合したような秘密のにおい。そしてその少女とは与謝野晶子だ。

 

 《紅の薔薇のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな》

 

 「少女」はばらのようなその唇で、美しい囁きごとを打ち明ける。

 白百合の乙女がなりたかった紅い花、であるところの彼女。朝露を落としていのちがつきるときにも気高い女王のような、その誇り。踊るおどる躍る。歌をくちずさみ輪をえがき、微風に翅を揺らして舞踏する蝶の祝福のなかで、彼女は高らかに愛を唄う。

 

 このRoseを纏うとき、わたしは少女のけだかさをわけてもらったような気分になる。



 幼いころに、こんなことをいわれたことがありました。

 

 「カボシャールを自然に纏い、おのれの体臭にすらしてしまえる女がいるのなら、その女こそ、ほんとうの女性だ。ぼくを魅了してやまない、記憶のなかの女だよ」

 

 その言葉は呪文となって、わたしのなかにいまでも沈殿している。

「記憶のなかの女」とは、きっとこの世界のどこにも存在しない《永遠》の女という意味なのだと、わたしは思う。あのひとも以前おなじようなことをいっていた。とても幼いころ、ダマスクローズの香りをした誰かととても心地よい時間を過ごしたことを覚えていて、その相手の名前も顔も声も記憶の物置小屋からは消えてしまったのに、いまでも街でダマスクローズの香りのするひととすれ違うと、つい振り返ってしまうのだと。

 

 香りというかたちのないものは、嗅覚を刺激していつまでもかれらを縛る。かれは経験していない過去を思い出す。ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』の、あの素晴らしい冒頭の一説のような気分で。

 

 "夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。"

 

 わたしはその「どこにも存在していない女」になることを夢みていた。香りのなかに《永遠》を宿すひとになりたいと祈っていた。

 

 しかしそのフレグランスの名前も知らない(あるいは香水ではなく美しい女の体臭であったかもしれない可能性すらある)ダマスクローズの香りはもとより、カボシャールの難易度の高さといったら!

 

 この香りを自由に纏い自分のものにできるまで、わたしには何年必要なのだろうと、ついそんなことを考えてしまう。いまのわたしではカボシャールは《認めて》はくれないでしょう。だからまだフレグランスに無謀な挑戦はしない。わたしのカボシャールへの「挑戦」は、永年ソープにだけ絞られています。まるで貴婦人の手を恭しくとるように掌のひらにくるみ、大切に大切に扱いながら、《彼女》の手を撫でるのです。



 どんな夢に溺れたいか。それによって真夜中に纏う香水を変えたりすることがある。そんな気分のときは、バスタイムに香りのついたBody Washやsoapは使わない。シャボン玉石鹸の出番。無添加でからだにやさしい、わたしの味方。実はこの石鹸を手にとる機会が、いちばん多いかもしれない。そしてそのあとに纏うフレグランスは、このあいだまでイプノーズが圧倒的に多かった。あの香りは甘美で透明で静謐な、蜜の悪夢をみせてくれるから。けれども近ごろはトレゾァの気分なのです。とても切なくて涙がこぼれそうになるようなラストノートの目覚め。