五つ数えれば君の夢

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 フレグランスの小瓶のなかには、わたしの夢とか希望とか、そういう砂糖菓子のごときものが詰まっている。わたしにはないもの、欠けているものを、香りを纏うことで、憧憬し理想し尊敬する女性の像へと、遠く隔たった距離から一歩近づくことがゆるされるような、そんな《夢》と《希望》を、香水にはたくしている。

 

 だからわたしがフレグランスを選ぶとき、そこにはわたしの「こうなりたい」女性像がこめられている。その香りのような、その壜のような、香水という観念にこめられた願いと祈りそのもののような、そういう女性に。

 

 そうするとわたしには五つの香りが必要になる。『5つ数えれば君の夢』の、わたしの《希望》が。

 

 

 イプノーズにわたしがこめた祈りは「魔術」

 あの淡く美しいむらさき色。貫禄と威厳に満ちた女王さまのような小瓶。誰も寄せ付けることのない孤高のひと。それなのにその香りの豊かな体温のかよったあたたかさといったら、どうだろう。心を凍らせた雪の女王のような女の心に、どんな氷さえ氷解させてしまう温かみが眠っているなんて、まるでおとぎ話のような香りだと思う。そうイプノーズとは幻惑のこと。その魔法でどんな相手の心も魅了しかねない香り、この小瓶は魔法の杖。わたしにとっての「魔術」

 

 ジャドールにわたしがこめた祈りは「記憶」

 ジャドールはわたしが十七歳のときのファーストフレグランスだった。わたしはもう自分が「ちいさい女」でなくなりつつあることを知っていた。「おとなの女」になる準備をしなければいけないと思っていた。だからジャドールは、わたしがはじめて「こうなりたい」と望んだ女性像だといえる。《女》という観念そのものを体現しているような、そのボトル。蠱惑する香りの儚さと気品のなかに、教養も思慮も洗練も魔性もすべてこめられているようで、しかしこの香りを纏うひとが心にもつ花の、花びらのいちまいずつは、そんなふうに言葉というありふれたもののなかにおさまることを、独楽のように回転して笑いながら逃げてしまう。つかまえられない波みたいに。香りというかたちないもの。十七歳のあのときから、わたしはこの香りのなかで育まれた。わたしの過去、わたしの「記憶」

 

 ミルにわたしがこめた祈りは「完全」

 ミルとは1000という意味。1000の顔をもつ女。本物といわれる女のなかには1000の感情があり、それを解放し、抑制しながら、成熟した女性のひとつの完成像を真実として見せてくれる。目に見えないものこそが大切です。誰も気づかないところにまで気を配れることがやさしさです。子どものころからいわれつづけたことを、この香りは実感として教えてくれる。山田詠美の『放課後の音符』という本に、語り手の少女の両親が幼いころに離婚し、しかし父親はいまでも別れた母が忘れられないという話があり、その理由のひとつとして、このミルの香水があげられていた。この香りを自分のものとしていたのが母ならば、そんな女性を父が忘れられないのはあたりまえのことだ……。それを読んだのは十代のちょうどピラミッドの頂点の年齢のころで、わたしは死ぬほどこの香りに焦がれた。完全なるもののなかにはかならず、不完全さが潜む。満月のあとに、月が欠けてゆくのが世界の約束のように。この香りの「完全」さが、わたしの不完全ささえ魅力にしてくれていることを、願ってやまない。

 

 トレゾァにわたしがこめた祈りは「危険」

 好きなひとたちが、わたしをやさしい女だといってくれることは、とても嬉しい。でもわたしの座標軸が乱れたとき、なぜだかそれが苦しみとなることがある。わたしにはほんとうはやさしさなど微塵もないから、相手を騙しているように感じられてしまうことが。相手から見えるわたしも、わたしという多面体のひとつの側面であり、やさしいとかれらがいうのなら、それもわたしを構築する要素のひとつなのだろう。それを否定することは、わたしにはできない。わたしは自分という人間を知らなすぎるのだから。でも、やさしい女にはなりたくないのです、というときがある。突然その衝動はわたしのなかに芽を吹く。やさしさというのが、それをもつ当人をけっして幸福にしないことが、わたしにはわかっているから。やさしさとは、愛する誰かをしあわせにして、それが自分のしあわせと思えるひとにこそ、通用する魔法の言葉だ。好きなひとたちには幸せでいてほしい。でもそれだけを願うほどには、わたしは成熟されていない。つまりトレゾァは、やさしさとは対極するところに佇む女の像を、わたしにあたえてくれる。放っておくとなにをしでかすかわからない、はらはらとどきどきと、目を離せない「危険」な女の、その像を。

 

 ロードゥイッセイにわたしがこめた祈りは「少女」

 わたしはこれを夕顔の香りと呼んでいる。夕顔はわたしの「少女」だから。この小瓶と香りから連想する《彼女》は、喩えるならこんな女性だ。細く長い手足、無垢でコケティッシュな顔立ち。けれどもそれをけっしてキュートといってはいけないような、アンニュイでミステリアスな雰囲気をもつ彼女。オゾンの無みたいな彼女には、天使のようなきよらかさ、妖精のようなあやしさが、おなじ比率で存在している。そこにあるのは、ひたすらな純粋、まだあどけなく世界を知らない、それなのになにもかもを知っている、その瞳ですべてを見とおしている「少女」、世界中のあらゆるものを、黒い瞳に映している「少女」。彼女を守ってあげたいと思って近づくのに、その純粋さに守られているのは近づいた相手のほうなのだ。この香りのような女性になったとき、わたしのなかに眠っている「少女」も目覚めてくれるだろうか、とそんな一縷の願いをたくして。

 

 五つの香りに5つの《希望》をこめて、このフレグランスの香りたちをすべて自分のものとできたとき、わたしはわたし自身になれる。そういう夢をみる。そんな日はもしかしたらこないのかもしれない。でも、夢くらい見たっていいじゃない。