血液

 

 

 わたしのことを無邪気だなんていうのは、あなたくらいのものです。

 

 無邪気さなんてかけらもないと思っていたわたしなので、自分が無邪気であるかどうかなんて、考えてみたことすらありませんでした。


 たとえばいま、わたしが十四歳の女の子だったとしたら、その言葉に舞いあがってしまったかもしれないけれど、十四歳でもなければ、もう女の子ではとおらない年齢にさしかかっているわたしは、それをほめ言葉として受けとることは、どうしてもできませんでした。


 あなたはけっして悪い意味ではないと強調してくれたうえで、わたしと関わった人間の一定数がなぜだかおかしくなってしまう理由は、わたしが相手の予想以上に無邪気な人間だったことが理由なのだといいましたね。

 

 わたしは日ごろ、とても抑制のある女のように見えるから、突然に隠されていた無邪気さが出現すると、相手は当惑し、次第に混乱して、どちらがほんとうの姿なのかわからなくなってしまい、それで少しずつ理性を失ってしまうのだと。


 ほかでもないあなたの言葉だから、わたしは「無邪気」というその単語の意味を真剣に考えてみることにしました。それによって自分という迷路を少しだけ探検してみることにしたの。そのために胸に手をあてて、過去に「一定数」のひとたちにいわれてきたことを、よくよく振り返ってみました。

 

 まず、わたしには冗談なのか本気なのかよくわからないところがある、とむかし誰かがいっていたのを思いだしました。冗談を本気のようにいったり、本気を冗談のようにいったりするから、なにもかもわからなくなってしまう、みたいなことを。


 おなじひとが、わたしはあたえるひとなのだともいってました。血液型のお話です。


 そのひとはAB型で、わたしはO型だけど、そのひとがいうには自分はAB型だからどの血液型からも輸血してもらえて、もらう一方だけれど、O型であるわたしは供給する一方だと。それがそのまま性格にもあらわれていて、あたえるだけでもらうことは拒絶する。あたえるばかりかどんな人間でも好きになってしまうけれど、ほんとうの意味では絶対に誰のことも好きになることはない。


 そんなことを決めつけないでほしい。このひとはなんて乱暴なことをいうのだろうと、当時わたしは心のなかで思ったものです。

 

 わたしにはかなり明確な好き嫌いがあるけれど、それをおもてには出さないだけだし、嫌いなものは自分と関係ないものとして縁を切っておくだけなのに、と。


 でも遠いむかしのことなのに、いまでもこうして思いだしてしまうくらいに記憶に痕を残す火傷のような呪いになっていることを思うと、痛いところをつかれたのかもしれないし、そのひとがいいたかったのはもしかして、無邪気なのもいい加減にしろという意味だったのかな、といまになってなんとなく腑に落ちたような気がします。


 K、あなたがいったこと、よく考えてみます。

 わたしの無邪気さについて。

 

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、14)