少女は「神」を殺して女になる

 


 

 先生、男にとって女とはなんでしょう?

 

 男には女という異なる性を持った人間が存在しているという認識はないのだと気づいたのは、正確にはいつのことだったか思い出せないくらい。彼らにとって(あなたたちにとって、といいなおしたほうが正しいでしょうか?)女とは宇宙人ほどにも自分たちと異なる存在でしかない。それは「人間」でなくても構わない。商品であっても、感情であっても、謎であっても、肉体であっても、聖域であっても、それはちっとも構わない。男とは異なる性を持った「人間」でさえなければ。違いますか?

 

 でも、わたしにはKならKの望みのとおりのお人形であろうと振る舞う意思はありません。もちろん妖精にも魔女にも巫女にも遊女にも女神にもね(ああ、女って何回書いた?)。基本的にわたしは向上心に乏しいのです。女になろうと決めたけれど、それは男全体が気に入る女になることとイコールではありません。

 

 少年たちには未来があります。むしろ、未来しかありません。ここでわたしのいう「少年」とは圧倒的多数のネアンデルタール人のことではなくて、ごくかぎられた少数の、背中に翼を生やしている少年、まだその翼の存在に気づいてもいないような少年のこと。でもいつかその翼の存在に気づく日がくる。その「いつか」を信仰している少年のこと。

 

 彼らは未来に訪れる「いつか」を待ちながら、なんの疑いもなく成長することができるわけです。反対に少女には、いいえ、わたしには現在しかありません。

 

 恥と、ほんの少しの甘美で彩られた過去は、現在のための布石にすぎず、それは時折眺めて顔を赤くしたり微笑ましく思ったりできる「アルバム」であってさえくれれば充分なのです。

 

 そして未来はというと、これは曇った鏡のようにはっきりしない代物です。それというのもわたしのまえを遮っている垣根が、現在より先を覗こうとするのを拒んでいるから。ある種の呪詛をこめてその垣根を睨んでみても、それがひとりでに開かれて「道」を示すようなことなんて起こるはずもない。わたしはしばらくのあいだ、あるいは死ぬまでのあいだ、この垣根とつきあっていかなくてはならないようです。

 


 これはわたしが二十歳のときに綴った『夏の鳥籠』という小説のなかで、静流という少女が家庭教師の先生に宛てた手紙で繰り広げる独白のひとつです。

 

 時間をおいて読み返すたびに、それから何年経っても、そのころとすこしも変わらずにおなじことを考えている自分に驚き、呆れてしまいます。

 

 誰のためでもない、ただ自分のためにだけ綴りつづけている個人的な小説で、わたしはずっと一貫して《少女》を書いています。わたしが綴りたいのは「神殺し」の物語。少女が自分の神さまを殺害して「女」になる。そういう物語を。

 

 昔話の『猿婿入り』や童話の『美女と野獣』で、うつくしい少女が異類の者と婚姻を結ぶとき、この異類とは神であり、この「神」を殺害し、少女は女になって、自分だけの人間の男と新しい婚姻を結びなおす。

 

 女は精神的な意味で二度結婚する生き物なのだとわたしは思っていて、わたしは「神」の殺害までは小説のなかで綴れるのだけど、二度目の「結婚」を書くことができず、その書けないというところに、わたしは「女」として不完全な自分を見るのです。

 

 そう、わたしは自分は「女」として不完全だという意識がどこかにあって、それは小娘のころになにかの通過儀礼に失敗してしまった名残なのかもしれないという気持ちが消えず、だから自分が綴る少女たちに幾度もイニシエーションを経験してもらうのです。たぶん、わたしのかわりに。

 

 わたしはわたしの「神さま」を殺したことがある。精神的に。

 

 血も浴びてないし、毒も用いてはいないけれど、わたしが《かれ》を殺してしまったこと、その衝撃からたぶんいまだに立ち直れていないのだと思う。あれは十七歳のときのこと、果てしなく遠い昔のことなのに。

 

 そしてそれを恢復させるために文章を書いているようなところがあって、だからわたしのなかにもし傷口があるのだとしたら、それが塞がったとき、そのときが文章を綴ることをわたしがやめるときなのだと思う。

 

 自分で書きながら、自分がなにを書いているのか、なんだかさっぱりわからないお話になってしまいました。

 

 とにかくわたしは不幸で、それ以上にとても幸福だということです。なにかを綴っているときだけ、ほかのすべてを忘れられる。