すべては眠りのなかにつれてゆく

 

 

 わたしは幼いころから、自分の肉体という壊れやすい機械を見張っている技師のようなところがある。その技師の目をもっていうと、ここのところこの機械の調子がいいとは、けっしていえない。このあいだまでは自分が削られてゆくような疲弊を感じていたけれど、いまは蓄積された澱のごときものを浄化するためなのか、とにかくわたしのからだは眠りを欲している。

 

 すべては眠りのなかにつれてゆく。

 

 この靄のように晴れない心も、霞の掛かったような頭も、霧に包まれたような視界も。すべて。こんなときに考えることといったら、あらゆるろくでもないことで、思考を停止させようとその流れを切断するのだけど、思考はその断ち切られたさきのしっぽから、また頭をもたげてわたしのなかに浮遊する。

 

 不幸には、それはどんなものであれ自分の指紋がついている。——これはロレンス・ダレルだ。

 

 不幸とは自分がつくるもので、おのれが「不幸」だと感じた瞬間から人は不幸になるになると、そんなことを、わたしも子どものころから感じていた。不幸には自分の指紋がついている。けれどもきっと幸福にだって、自分の指紋がついているのだ。誰もが幸せで不幸せで、生きていれば、つけなくてもいい指紋をいたるところにつけてしまう。その指紋は幸福のしるしになるかもしれないし不幸を呼ぶかもしれない。すべての指紋と下してきた選択の末に「現在」がある。それが正しかったかどうかなんて、誰にもわからない。自分にさえ。そう、自分にさえ。

 

 祈りの形式として文学を書くこと。——これはフランツ・カフカだ。

 

 わたしは祈りの形式として書物を読み、祈りの形式として、いまこれを綴っている。自分のなかに大伽藍のような図書館を築き、《不在》の神の声をきき、その《声》を文章にすること。それがいつからかわたしの祈りのかたちだった。神さまなんて、どこにもいない。いたとしても、とっくに死んでしまったに決まっているし、生きていたとしても、ただひたすらに空虚な無関心の幕をひろげているだけだろう。それはわたしたちにとって、死んでいるのとおなじことだ。

 

 「わたしには神さまはいないから、なにかを祈るときは自分自身にお祈りすることにしているの」

 

 幼いころにそんなことをいって、やさしいひとを困らせたことがある。いまでもその気持ちに変化はない。

 

 わたしはあまりにも子どものころから変わらない人間であり、だからいま、わたしはおおきなこどもだ。成熟したい。果実の豊かさのまえに、呪わしい花を咲かせて。わたしはいまだに蕾なのだから。

 

 いまは真夜中。金色の目を光らせた梟みたいに目覚めてないで、はやく眠ることだ。おもく沈むことだ。夢見つつ、自分自身を深く彫りあげてゆくこと。わたしにできるのは、それしかないのだから。