つつじの蜜の味

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 「つつじの花の蜜は天使の血とおなじ味だと思う」

 

 わたしがそういうと、彼女は不思議そうな顔で「どうして?」と疑問符を浮かべた。

 

 「だって甘くて、そして毒がある」

  
 放課後の帰り道、わたしたちの傍らに鮮やかに咲くあのアザレアピンクの花の色を眺めながらかわしたそんな何気ない会話を、季節がめぐってくるたびに想いだす。

 

 「天使って、いると思う?」とわたし。
 「わからない。でも存在していないほうが美しいことはわかる」と彼女。

 

 そしてわたしたちは無言で、どちらからともなくその花を萼から摘んで、口にふくんだ。天使の血の味がした。

 


 小学校五年生。わたしたちは入学してからずっとおなじクラスだった。

 彼女はわたしにとって、いちばん仲の良い友人であり、尊敬すべき魅力的な読書家だった。


 ムーミン谷の物語も『はてしない物語』も彼女から借りて読み、わたしも『ふたりのロッテ』や『霧のむこうの不思議な町』を彼女に貸したりしあう仲だった。


 とても聡明でなにをやらせても誰よりもよくできる、長い睫毛のブラインドと宝石みたいによく光る目と果肉の花びらみたいな口をもった彼女がどうしてわたしの友人だったのかはわからないけれど、どんな相手にもやさしくて、どんな相手からもそういう少女のように見られていた彼女が、わたしのまえではすこし辛辣になるのにくすぐったいような親しみを抱いていた。


 たとえば名作と名高いある書物を読んだときのこと。

 

 「これが名作といわれるなら、名作という言葉の意味を考えなおさないといけないんじゃない」と彼女はいった。退屈そうな、大人びた声で。

 「名作って、たんに立派だとしておかなければ具合が悪いような有名な作品のことでしょう」とわたしがいうと、彼女は冷ややかに凍らせたその花のかんばせを綻ばせた。


  笑わないとなったらけっして笑わない彼女の顔を見ていると、にっこり笑わせるためにあらゆることをせずにはいられなくなるようなところがあった。笑ってくれると嬉しくて、わたしは幸せな気持ちになった。天使の血のような甘さが胸の内側にひろがった。

 

 あのころ、わたしたちは角川文庫から出版されていた「マイディアストーリー」というシリーズをあつめていた。赤いギンガムチェックの装丁でそろえられたその作品群は、女の子が特別な日に贈られる素敵なプレゼントをつつむ包装紙のようだと、わたしは思っていた。

 

 マイディアストーリーは母親が娘に読み継がせたい書物を主題としてつくられたシリーズなのだと聞いたことがある。リンバロストの乙女、少女レベッカ、村の学校、若草物語といった普遍的な懐かしさに満ちている少女小説たちは、娘時代の終わりとともに少女たちの本棚から一掃されて、どこかにいってしまう。しかし時間の経過とともに娘だった彼女たちは母親になり、あのころ自分が愛読した、けれどもすでに書架から失踪してしまった本を娘に受け継いでほしいと感じる。そんな願いが託された本たちをあつめたシリーズなのだと。

 

 そのなかにモーリーン・デイリの『十七歳の夏』はあった。

 

 一度だけの夏を綴った物語。

 十七歳という若さではじめての恋のなかにいるということは、嵐のなかにいることに似ている。

 

 梳る乙女の黒髪のように艶やかにしなる意志をもって降りそそぐ雨粒のはげしさに感情は彩雲のごとく煙り、視界は鮮明ではいられず、すべてのものに靄がかかって、冷静でいることはできない。――少なくともどこにでもいる少女ならば。

 

 だがこの物語は「どこにでもいる」少女の《恋》を語っているにもかかわらず、その恋をあまりにも明晰な声で囁いてくる。ここでいう「声」とはもちろん文体のことだけれども、そこに綴られたある種の淡泊さが、それがもう、終わってしまった季節であることを感じさせる。

 少女はおのれが通りすぎた十七歳の夏を「振り返って」、あのときあのような恋をしたと、そんなふうに回顧する。これはそういった物語なのだとわたしは思う。そしてその過ぎ去った少女期の、なんと美しいことだろう。

 

 十七歳の夏は一度だけだ。誰にとっても。それは天使の血の味のする季節なのかもしれず、そしてつつじの蜜を口にふくんで目配せしあったあの子を想いだすとき、あれもわたしにとってたった一度の季節であり、だからもう二度と訪れず、遠くに置いてきてしまった追憶の日々でしかないことを思い知らされ、眼の球が湿ってくるような感覚に襲われる。

 

 失われた時。

 

 プルーストにとってはマドレーヌで中勘助にとって銀の匙であったものが、わたしにとってはつつじであり、あの花の蜜とおなじ味がする記憶の塔のなかに、いまは亡き王国がある。

 

 その楽園のなかで、彼女はつつじに囲まれて微笑んでいる。
 いつまでも夏がおわらない、光輝と腐敗のある場所で。

 

 

 *モーリーン・デイリ/訳・中村能三 『十七歳の夏』 角川文庫
 

 

 

十七歳の夏 (角川文庫)

十七歳の夏 (角川文庫)