クラーナハ展/西洋美術館

 

 ひとつまえの文章でユディットのことを綴ったので、そのついでというわけでもないのですが、ユディットの画家であるクラーナハの去年ひらかれた展覧会のことを、過去に綴った文章ですけれども、ここにおいておきます。

 


 ドイツ・ルネサンスの巨匠、クラーナハ。その絵画に漂う冷ややかに妖しい香りに誘われるように、西洋美術館を訪ねてきた。

 

 そう、クラーナハといえば「つめたいあやしさ」を纏った美しくも残酷な女たち。
しかしわたしの目は永いこと、そんな言葉とは縁をもたない、おそらくこの世界でもっとも多く人々の口の端にのぼる、ひとりの女性の画へと注がれていた。

 

 

 「聖母子像」


 この哀し気な顔は、どうしたことだろう。腕に天使のような我が子を抱きながら、その幼子が自らの胸を介して、この世の祝福の乳を飲み干そうとしている姿に、母親は目もくれない。そんなことは彼女の関心の外にある。彼女にはほかに気懸りなことがあるのだ。我が子を愛していないわけではない。むしろ愛しているからこそ、彼女は透明な哀しみのなかにいる。その視線はどこへとも目的もなく宙に投げられている。無限大を捉えている。その瞳には「映っている」。この腕に抱いているいとけない愛し子の行く末が。どうあっても変わることのない定めが。

 

 その諦観に触れたとき、わたしはなぜだかいままで観たどの聖母子像よりも、心を揺さぶられる自分を感じた。わたしのなかで純化されたなにかが、目のなかにあふれて、とどめきれず、涙をこぼした。

 

 

 「アダムとエヴァ


 《楽園》と聞くと、わたしはD・バーンズの『夜の森』の一節を想いだす。

 

 “閉ざされた庭のような世界のことを思いはじめた、誰も彼もその狭さと美しさのゆえに考えを高尚にできる庭のことを。あるいは心が拡がって、その俗悪さが希薄になる、そのような広い野原のことを。”

 

 「閉ざされた庭」。《楽園》とはきっと、そういう場所だ。わたしにはエヴァの気持ちがわからなかった。「むかしひとりの女が、禁じられた果実を齧って、おのれが女であることを知り、楽園よりも広い世界を知った」というとき、閉ざされた狭い庭の、なにが不満だというのだろうと不思議だった。いまでもその気持ちにかわりはないけれど、エヴァのその決断を理解できるくらいには、わたしも成熟へと一歩近づいたといっていいのかもしれない。この画を見つめながら、そんなふうに思った。

 たしかにエヴァは《決断》した。禁じられた果実を食べれば、《楽園》を追いだされることを承知のうえで、彼女は「食べた」。アダムはただ、女の決断におつきあいさせられただけだ。「たまたま」そこにいたのがかれであったから。それだけの理由で。女が《決断》したとき、男は引きずられて運命をともにするか、その引力圏から逃げのびるか、どちらかひとつなのだから。

 

 《楽園》とは誰もが蝶でいられる場所だ。

 儚く透けるふたつの翼の羽ばたきを休めて、自身の翅の重みに耐えかね、まどろむ蝶は夢のなか。《彼女》は半分に開いた扉の陰からその様子を眺め、蝶を起こさないように少しずつ扉を閉めてゆく。わたしのかわりにあなたをここに幽閉する。どうかゆっくりと眠っておいで。わたしは目覚めて、歩かなければいけない。血と涙のまじる、この醜い混沌の現を。扉を閉じたとき、孕む風もなくはためく蝶の黒い影を、背中越しに感じながら、《彼女》は扉からゆっくりと遠ざかってゆく。

 

 《彼女》とはエヴァのことだ。彼女は「夢」のなかで貝殻の眠りにくるまるやさしさとしあわせを、充分に知っている。「だからこそ」醜いうつつに目覚めたいと願った。そう、まるで人魚姫が美しい青い塩の砂漠を棄てて、人間になりたがったのとおなじ理屈で。わたしが《彼女》たちのその決断を尊く感じるのは、おそらく自分ならば《楽園》を捨てることはできないことを知っているから。いつまでも偽りの安寧のなかに身をゆだねてしまうだろうおのれを。

 

 

 「ユディト」


 ユディト・コンプレックスという言葉を知ったのはいつのことだっただろう。

 未亡人ユディトは、自らの町に侵略してきた敵の大将ホロフェルネスを誘惑し、魅せられた男がおのれを奪おうとしたそのとき、首を斬って町を救った。

 この話が飛躍し、解釈され、男に身をまかせたいと望む女が、いざ男に征服されると、その男に憎しみを抱き、それが殺意に染まってゆくという神経症のことを、ユディトの名を冠したコンプレックスとして、この後世に広まっている。

 

 正直にいって、わたしはユディトの気持ちが理解できる。少なくとも、その心の深遠な泉の水の一滴くらいはわかるつもりでいる。自分という人間が、誰の介在も受けずに独りで成立していたいという願望。男によって「かたち」を定められ、それが世界の通行手形のように「認められる」憎しみ。わたしの許可なく屈服してほしい。わたしの許可なく侵入しないで。矛盾。

 

 この画のなかのユディトは、男の首を傍らに、冷ややかに微笑んでいる。そう、これは彼女が男へくだした《罰》なのだ。それはまるで種族繁栄の営みのあとに雌が雄を食い殺してしまうという、あの鎌切のように妖しい美しさだと思う。

 

 

 最後に。

 

 この展覧会限定で販売されている「JUDITH」と「SALOME」と名づけられたレーステープが素晴らしい完成度で、自分用のおみやげとして購ってしまった。ほんとうに美しくて夢のあるステーショナリー。西洋美術館はいつも、おみやげもとても素敵。

 

 

 (2016.11.18)