月の真珠

 

 

 月とは世界が生みだした真珠だと、あの日から考えるようになりました。あのあばただらけの衛星には、ただ荒廃があるだけだと教えられた日から。それは痛めつけられた貝が、自らを守るために生まれた宝石。わたしの心が傷ついて、だれかの心が疵ついて、その《きず》が空のなかに吸いこまれた。すべての痛みを引き受けながら、真珠は空に輝いている。

 

 あれは誰かの哀しい片目。その閉じた輪の中にはきっと、永遠があるのね。
 あれは誰かの憂えた横顔。その俯いた顎の線にはたぶん、瞬間があるのね。

 

 頭のなかで宇宙を巡り旅してまわっているひと、この現実のなかでも空にむかって羽ばたきたいのにどうすれば飛翔できるのかわからず密かな憂いを隠して誰よりも楽しそうに笑う(しかしそれは自分自身を嘲嗤っているのかもしれない)少年みたいなひと、太陽からやってきてわたしのまえに出現した訪問者のようだとつくづくと感じているあのひとが、いつかわたしを月のようだといいました。

 

 

 「ぼくにとってあなたはそれこそ月のような存在だ。近づき過ぎて墜ちることもなく、離れ過ぎて飛び去ってしまうこともなく、明るい昼の空の下では静かにさりげなく、宵の地平の彼方ではひときわ大きく妖しく、そっと冷たい光を湛えて揺蕩っている。

 それはとても優しいことだとぼくは感じる。

 ただ、ぼくが優しいと感じることと、あなたが優しいということはまったく別の話だ。

 月が巨きく見えたり新月の夜に姿を消してしまうのだって、ぼくが勝手にくるくる回って見たいときにあなたを見ているからに過ぎなくて、それはひどく自分勝手な話だと思う。

  ぼくがどうあなたを見ていようと、それはあなたの本質とは関係なくて、だからぼくはいつもいっている。あなたがぼくにとってのあなたである必要はないと。たとえぼくがあなたのことを見分けられないくらい、ぼくにとってのあなたらしさを失ったとしても、ぼくはあなたがあなたであるのならばその方が嬉しい。」

 


 美しい星があるとき、女はそれを首飾りにしたいと望み、男は飛んでいって研究したいと願う生き物だと誰かがいってたその言葉を想いだすとき、なぜだかあのときのあのひとのあのせりふが胸のなかに甦ります。

 

 美しい星になれなくてもいいから、一瞬でも興味を惹いて、その宇宙を巡る旅のなかでひとときだけでもここに滞在してほしいと願ってしまう。わたしの輝きは塩粒ほどのものかもしれない。それでも涙の結晶みたいな星になって、あの心に吸いこまれたブラックホールみたいな傷を、食べてあげたい。

 

 わたしが哀しくなると、それを知っているように天が泣く。雨はわたしにいつもやさしく、銀色の指でわたしを包んで、この憂いと哀しみを沈めてくれる。心の隙間に流れる透明な水みたいに。

 

 夜を仰げば、かならずそこにある月の不在。

 わたしはけっして月に還ることはできない。

 

 そんなとき雨に融けてしまいたいと思う。

 

 そうして蒸発されて、空にいきたい。太陽の棲む場所に。雲になってあの火球を覆いたいと祈ってしまう。誰にもそれが見ないように。

 月が空に不在の日、掌のひらにひと粒の真珠をくるんで太陽と見つめあうことができたなら。それがわたしの祈りの最大のもの。