雨の日の過ごしかた

 


 *雨に唄えば
 水の軍勢が敗走するのを待つのではなく、水と戯れたい。いちばん好きな傘をさしてお散歩しながら、雨に似合う歌のメロディをちいさく口ずさみたい。


 *わたしのメロディリスト。
 小沢健二『愛し愛されて生きるのさ』、B.J.トーマス『雨にぬれても』、フランソワーズ・アルディ『私の詩集』、シーナ&ロケッツ『YOU MAY DREAM』、ラヴェル『水の戯れ』、ショパン『雨だれ』。

 

 *傘のなか。
 誰と歩いていても、誰とすれ違っても、傘のなかには自分だけの世界が広がっている。それが心地よく、嬉しく、淋しい。わたしはひとりだ。


 *六月。
 いまが六月ならば、歩きながら出逢う紫陽花の数を指折って、あまたに咲くその美しき球のなかに眠る一抹の闇と幻視に、あこがれとかなしみを感じること。


 *十月。
 いまが十月ならば、滅びの血を流すように整然と立ちならぶ曼珠沙華の群れが、やさしい雨にうたれてその傷口を消毒されてゆくさまに目を凝らすこと。


 *噴水。
 扇のように広がる噴水のなかに全身で飛びこみたいのを我慢して、空から降りそそぐ雫を吸いこみながら想像力のように湧きだす水を眺め、心を鎮めること。水が教えてくれる時間の流れに、身をゆだねること。


 *お散歩を終えておうちに帰ったとき、まだ雨のやむ気配がなかったら。
 「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」といった植草甚一の言葉を実践すべく、推理小説を読むこと。


 *わたしのミステリリスト。

 日本編。

 小沼丹『黒いハンカチ』、竹本健治『カケスはカケスの森』、夢野久作『少女地獄』、横溝正史『真珠郎』、中井英夫『虚無への供物』、皆川博子『倒立する塔の殺人』、服部まゆみ『この光と闇』、岩井志麻子『女學校 』。

 

 海外編。

 シャーリィ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』、シェリイ・スミス『午後の死』、セバスチャン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』、 ピーター・ラヴゼイ『偽のデュー警部』、 ヘレン・マクロイ『ひとりで歩く女』、アントニイ・バークリー 『毒入りチョコレート事件』、ウイリアム アイリッシュ『幻の女』。

 


 どれを読もうか題名を羅列するだけで、一日が終わってしまう。

 それがわたしにとっての、雨の日の正しい過ごしかた。「正しい」とは「理想」という意味です。

 


 ミステリは大好き。
 わたしを盛大に騙し、驚かせてくれる、知的で優雅でありながら大胆で野蛮でもあるという、そんな魅力的な犯人はどこにいるのだろうかと、運命のひとでもさがすように、いつもそんな気持ちで推理小説のなかにしかけられた罠に、自らすすんで身をゆだねてしまう。

 

 それは巧妙に隠された真実をさがすための旅でもある。

 けれども「真実」なんて、どこにあるのだろう?

 その言葉は銀色の雨のように儚くて切ない。
 

 わたしは雨のそんな冷ややかな甘さが好き。
 けれどもそれは、だからこそ鋭い銀の針となって、誰かの心を刺すこともある。

 

 「わたしは雨は嫌いなの」と彼女はいった。

 

 「正しくは激しく降る雨の音が嫌い。何処にいっても逃げられないあの音が苦手なの、怒鳴り声を聞いているみたいで。あなたが雨が好きならば、傘を持って、迎えに来てほしいわ。わたしは北原白秋のあめふりを口ずさみながら、何処かで雨宿りをしている筈だから」

 

 わたしが雨だったら、彼女の心をけっして、針でなんか刺さない。
 わたしが雨だったら、彼女をやさしく包み抱きしめて、透明な球体の安寧のなかに溶けて融けて解けあいたい。


 わたしは雨が好き。そういうと、天邪鬼だねといわれます。

 そうです。わたしは《鬼》を心のなかに飼っています。だからおひさまが燦々とふりそそぐ晴れの日に家にこもり、台風や嵐の日におでかけしたくなるような、そういうありさま。

 

 雨はどんな楽器とも異なる音でわたしの世界を奏でてくれる。小雨ならば傘をささずに街を歩きたい。わたしの傍らをとおり抜けてゆく深海魚のように見知らぬ人々のなかを彷徨し、王冠みたいに銀の雫の水滴を頭上に頂きながら、こう思うの。とても寒いわ。この世界のすべてのものが灰色の冷淡さを纏い廃墟になったとき、温かいのはわたしの心臓だけではないかしら。


 やがて雨が終わりを告げて太陽が復帰したとき、あるいは死滅したとき、頬に触れてゆく風のかすかな変化とともに、あたらしい季節が訪れる。わたしのもとにも、あなたのもとにも。