夏はもう戻ってこない

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 “ 彼女がこの夏の九日間を一緒に過ごそうと提案した時、私は新しく買った日記帳のことを考えていた。”

 

 『蛇行する川のほとり』という物語はそんな冒頭から幕をあける。

 

 

 “ その気になればほんの一撃で壊してしまえる代物なのに、少女たちはあの小さく脆弱な鍵に、自分の秘密を託していた。誰かに読まれたら恥ずかしくて死んでしまう日記帳。けれど、素敵な誰かに読まれたかった日記帳。彼女たちは、特別な誰かに読まれるところを想像しながら、その相手に向けて、ほんの少しだけ繕った自分の日常を綴り、退屈な夜のひとときを過ごしていたのだ。そして、私も、あの日を境にそんな少女たちの仲間入りを果たすはずだった。”

 

 

 あの日。

 

 それは夏の王国が勢力をのばして季節の地図のなかにおのれの土地を拡大しつつある日のこと。わたしは約束をした。夏が玉座に座り、その王位が確立したとき彼女の家に訪い、ともに過ごし、わたしの永くて短い休暇の九日間を捧げると。彼女は憧れのひとだった。だから誘われ、わたしは有頂天になった。その約束が負荷になることがあろうとは思いも寄らないことだった。負荷。マイナスの荷物。これはなにかの罠かもしれないなんて、どうしてわたしに考えることができただろう。

 

 これは五人の少年少女たちのひと夏の物語だ。

 

 その誰もが過ぎ去った遠い日の夏を見つめながら、いまここにある季節のなかにその記憶を埋葬することを拒んで、その誰もが大切に胸のなかに抱く《真実》の硝子の破片に刺さって血を流しながら、その疵の痛みさえ愛しく甘いため息をこぼしてしまうような、そんな幼少時代に縛られている。

 

 白いひかりのなかで輝きを放っているとばかりに見えていた少女が不意に見せるほの昏い凝視。その眼差しの妖しい漆黒が行間から感じられる。御影石みたいな彼女の瞳は、自分を見つめる者を見つめ返しスフィンクスのように微笑みながら、相手が望む「答え」をその耳もとに囁くのだ。それは《真実》とはかぎらない。真実なんて、口にした途端に舌が腐ってしまう虚構の猛毒なのだから。

 

 だから少年少女たちが見ていた《真実》は、それぞれに違っていた。

 

 そこにあたらしい風が吹いた。――第一部ハルジョオンの語り手の「私」である毬子は、彼女たちのなかで固まりつつある過去を粉砕するために現れた闖入者であり、秘密の「日記帳」をひらくための物語の鍵でもある。そして彼女は風だ。花びらを揺らし、はらはらと散らしてしまうかもしれない危険を孕んだ風。

 

 その「風」によって隠されていたものが明るみにでる。

 

 十代のころにはじめてこの書物を読んだとき、少年少女たちに魅惑され、美しい夏という観念を蕾のなかに閉じこめてしまったような物語に魅了された。

 

 夏の終わりとともに、美しい少年少女たちは子供時代を亡骸にしてあたらしい季節へと踏みださなければならない。それを望んでいなくても。それが奇跡のようなひと夏へのはなむけだから。

 

 

 

 *恩田陸『蛇行する川のほとり』 中公文庫

蛇行する川のほとり (中公文庫)

蛇行する川のほとり (中公文庫)

 

 

 

 中央公論新社のこの版をはじめに読みました。

 読みこみすぎてぼろぼろなのです…。

 

蛇行する川のほとり〈1〉

蛇行する川のほとり〈1〉

 

 

 

 

蛇行する川のほとり〈2〉

蛇行する川のほとり〈2〉

 

 

 

蛇行する川のほとり〈3〉

蛇行する川のほとり〈3〉