年齢

 

 

 褒められているのか、それとも皮肉なのか、それはわからないことだけれど、わたしには年齢不詳なところがあるというようなことは、よくいわれます。

 

 「わたしは十二、でもよくよく見れば六十でもある」なんて言葉を十二歳のころから自分の呪文にして、年齢なんて食べてやりたいと思っていたわたしだから、戸籍上の年齢にはいつも中身が追いついてなかったり追いこしすぎていたりして、ほんとうに困っているのです。


 二十歳を越えるときに奇跡的な跳躍が自分の身に起こって、せめて心だけでも老女になることを期待していたのだけど、それも失敗してしまったし。そう、二十歳の刃を跨ぐとき、なぜわたしは生きているのだろうと不思議だったこと、いまでもはっきりと覚えています。


 たとえば幼いころ、自分が二十歳まで生きようなどとは、思ってもみなかった。といっても死に甘い夢想を抱いていたわけでもなく、自分のなかの「子ども」が時間によって殺されるとき、わたしの肉体もまた、この世から消えてしまうはずだと漠然と考えていたのです。

 

 だから二十歳の誕生日の夜、冷えた空間のなかで凍えながら、まるで屍体のようにつめたい指先に、それが「つめたい」と感じられる神経が自分に残っていることに、つまりは《死》んでないことに気づいて、わたしは愕然としました。


 ああ、生きのびてしまったのだと思ったの。
 べつに死にたかったわけでもないのに、生きていることに失望して。

 

 思えば十三歳という年齢を過ぎるころから、毎年誕生日になると、おなじ気持ちを味わっていました。

 

 一年に一度のその日がめぐってくるたびに、今年こそはと思いながらも、昨日と変わらない今日がきて、明日を迎える。わたしはひとつ年を重ねて、けれども世界はなにも変わらない。その繰り返しでした。そしてわたしはなにかを諦め、なにかを放棄し、《大人》へと近づいてゆく。

 

 女になること。女は女に生まれるのではなく、生まれたときにつけられた性の符号を、ある時機がきたら、自分のタイミングで受け入れなければいけない。おおなわとびの縄のなかに入るような覚悟をもって。

 

 "「お嬢さん」って呼ばれつづけていたいからめぐる縄とび入れずにいる"


 そんな歌を林あまりが紡いだけれど、現実としていつまでも「お嬢さん」でいつづけることはできません。永遠に少女でいたいと願えば、どこかに不自然なゆがみが生じることは否めないし、蝶の死骸で自らを飾り立てるように《少女》という亡骸に固執してそこにおのれを縛りつけることは、その末路を考えると、とても辛い選択だと感じます。


 わたしのなかに棲む《少女》は十七歳のときに死にました。それはある「別れ」によって到達した《死》でした。そのときわたしは女になることを選んだの。


 そのはずだったのに。
 
 なぜこんなにも切なく哀しいのだろうと、二十歳になった夜、我がことながら自分でも不思議でした。わたしは諦め、受けいれたはずなのに。二十歳という年齢は、まさに「刃」を跨ぐ痛みをもって、わたしに迫ってきました。

 

 どうして女は、少女から女への移行しかゆるされていないのか。なぜ少女のあとに奇跡的な跳躍によって「老女」になることができないのか。

 

 十九歳のあとに待っていたのが六十歳への移行ならば、わたしは喜んでその年齢に身をゆだねたというのに。

 

 年齢の跳躍の話だけでもおわかりのとおり、二十歳の刃に跨っていたころはいろいろと馬鹿なことを考えたもので、十二歳で六十歳でもあるという呪文の話からもお察しのとおり、わたしはもともと馬鹿なことを考えがちなのですが、でもそのころとまったく変わってないない現在をかえりみて、ほんとうにわたしは子どもだと、つくづくと思うのです。

 

 肉体の時間は自分の意志とは無関係に、どんどん進んでゆきますね。
 精神の時計は自分の意志で停止したり、前進したり、後退したりもできる。

 

 わたしはいつのまにか置いていかれ、時は流れていく。あとに残されるのはきっと、枯れて萎れてしまったわたしの残骸でしょう。花を咲かせることなく蕾のまま散ってしまった、わたしの残骸。それが骨となった花びらとして、無残にわたしのなかに散らばっている。

 

 わたしの心はわたしの強い祈りのもとに時をとめて、きっと仮死状態の眠りに就いてしまったのだと思います。世界にむかって目覚めるのには、あと幾年の時間が必要なのでしょうか。


 こんな話、あなたは困ってしまうわね、きっと。

 困らせたくはないわ。でもたまに、とても困らせたくなる。矛盾。わたしを構築するもの。

 

 

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、12)