赤い靴へのあこがれ

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 幼いころから、いつか赤い靴が似合う女のひとになりたいと思っていた。

 

 そんな憧れでちいさな胸をいっぱいにふくらませていたわたしに、祖父が赤い靴のキイホルダーを買ってくれたことがある。リボンがついたハイヒールのお靴のそれはとってもかわいくて、小学校の低学年だったわたしはお家の鍵につけて毎日持ち歩いていた。

 

 そうそう、なぜそういうなりゆきになったのかは忘れてしまったが、ちょうどおなじころ、従兄にも赤い靴のブローチを贈ってもらった。きっと赤い靴のもつ魔力にあらがえず、なかなかそのブローチから目を離すことができずにいたわたしを見かね、ある種の温情として、当時高校生だったかれはお小遣いのなかからそれをわたしに買いあたえてやってもいいかという気持ちになってくれたのかもしれない。

 

 そのふたつの贈り物にはいまでも、あのころのわたしの祈りがこめられている。

 それはつまり、「いつか赤い靴がふさわしいわたしになりたい」という祈りだ。

 

 なぜこんなに「赤い靴」という観念に憧れ焦がれるのか。それはその靴を履き、颯爽と歩いてみせることが成熟した大人の女になったことのあかしであるという、おさなごころに芽生えた抜きがたい偏見(ある意味、それは偏見だ)もさることながら、そのころ繰り返し聴いた童謡が、あの哀愁のメロディでわたしの耳朶をうちながら呪文をかけてしまったのだろうと思う。

 

 赤い靴をはいていた女の子が、永遠に誰かのまえから去ってしまうあの物悲しい音色。異国のひとにつれられて、彼女はどこかにいってしまった。それがどこなのかは、わたしたちには謎のままだ。理由もわからず彼女は《いってしまった》――ただ去る者だけが美しいというように。

 

 異邦人にさらわれた女の子の歌に、甘美なあこがれがなかったといったら噓になる。

 

 ただ去りゆく者だけがうつくしい。わたしはいつだって去ってしまいたかった。誰かのまえから、世界の殻から、この現実というお墓のなかから。だからここではないどこかへととこしえに消えてしまった女の子に、おそらく羨望に似たなにかを抱いてわたしは赤い靴をほしがっていたのだ、といまならわかる。

 

 おなじくいまならわかることは、どこへいってもわたしは《わたし》から逃れられないということ。いま《ここ》で生きていけない者が、《どこか》でなら幸せに暮らすことができるなんてことは絶対にない、ということ。ユートピアアルカディア桃源郷も、どこにもない。赤い靴をはいた女の子が儚くなったとき、理想郷はみんな跡形もなく消えてしまった。

 

 しかし、場所もさだかではないただ「異国」のひととだけ登場する、男か女かもわからない誰かが少女の手をひきながら長い影をのばして黄昏にむかって歩いてゆく姿を想像するとき、わたしはいまでも甘美な感傷にひたらずにはいられないのだ。それはわたしの綿飴みたいな夢のようなものだから、ゆるしてほしい。夢をみることを奪われては、わたしは生きていけないのだから。

 

 いまでもわたしは赤い靴にあこがれる。

 

 成熟した女の象徴。そして甘美な戦慄をともなう未知の、地図にはない国へとわたしをいざなってくれるような気がして。

 

 

 

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