さよならの手紙

 


 三鷹の駅北口から歩いて五分のブックカフェ、「点滴堂」はちいさなお店。

 

 おそらく美しいもの、儚いもの、大切なものを丁重に保存し、扱うためには、その小ささは必要条件なのだ。

 

 足を運ぶたびになにか、わたしにとって、美しく儚く大切なものと出逢えるような、そんな予感に満ちている。

 

 たとえば大好きなアイスカフェオレの《処方》をお願いして席に着いたとき、目のまえに並べられた本のなかから、わたしが何気なく指の赴くままに取り出したその一冊に挟まっていた「手紙」。誰かの手書きの手紙。恋人と別離した女の子の、失恋の手紙。それがはらりとわたしの掌のなかに舞い降りた。わたしはそれを盗み見てしまった。……そのフリーペーパーをひらいたとき、そんな気持ちになった。

 

 その手書きの「手紙」は、早稲田大学の学生が発行しているフリーペーパー『Cue』のVol.29号、『さようなら恋心』の中表紙に綴られていたものだった。

 

 “心は口から外に出さなければ、命を与えてあげなければ、在ったことにはならない。確実に在ったことにしたいんだ。そう言ってわたしを愛し始めてくれましたね。そのような美しい台詞ばかりが、今となっては何よりはっきりと思い出されます。

 

 愛するということには、能力と技術が必要だなんて夢にも思わなかった、あの頃のわたし。絵のような恋がしたい。物語の中のように愛し合いたい。そう願うことに何の躊躇いも持たない少女だったわたし。そんなわたしは結局今ひとり。愚かで幼く、一人であるということだけが濾しだされたみたいですね。

 

 あの夜の月はとても鋭く光った三日月で、指先で触ったらたちどころに血が溢れてくるに違いない、とわたしは思ったのです。終わりの話を始めたあなたの隣で、月を見つめることしかできない。これがわたしの弱さです。

 

 もうこれで、わたしは絶対にあなたを嫌いになどなれません。

 

 「いい恋をした。わたしは好きになった人を間違えなかった。」

 

 こんな風にして、あなたのことをずうっと覚えておくつもりです。

 

 当分の間、わたしはきっと上手に食事も出来なくなり、当て付けのように痩せたりすると思います。そして、たとえば一杯の紅茶を魂の片割れのように愛しみながら飲んでみたり、濃い青色のペンのインクを心底美しく感じたりするようになることでしょう。

 

 春の夜、俯く私が見つめ続けたヴィングチップ、タイムズスクエアスターバックス、駅からあの部屋までを彩っていた木道の並木。もう何もかも大嫌い。すべてあなたのせいです。

 

 どうかお元気で。”

 


 わたしは一瞬で心を奪われてしまった。

 このお手紙を、いつでも好きなときに眺めたい、とそんな気分でご店主さんにお尋ねしたけれど、お客さんからいただいたもので非売品とのことで、それならこの手紙の部分だけでも書き写してかまいませんかと無理にお願いして、日記帖に綴ってきてしまったのでした。


 わたしはこの、ひとつの《恋》を失う瞬間のお手紙を拝読しながら、倉橋由美子の『愛と結婚に関する六つの手紙』を想いだしていた。こんなふうに情熱的で戦慄的な出だしからはじまる、あのお手紙を。

 


 “K、わたしはわたしの愛を——まだそれは生きていて、生きることをこんなにも願っているのに——殺害したい! そのもっともやわらかい部分に刃をあてて、一気に動脈を切断したい! そうして逃げ去っていく血は、わたしの命まで奪うことになるかもしれませんけれど、卑怯なわたしはもう死ぬよりほかない愛に早く「安楽死」を与えてやりたいのです。”

 

 

 恋、女を女性という感覚に従えば『恋愛』は、特別な才能と機会に恵まれたひとだけの特権なのだと、幼いころからわたしは思っていた。それは相手の自由を獲得するという目的のために繰り広げられる美しい獣同士の戦いだ。

 誰かを愛するなんて、わたしにはそれだけで夢物語だった。そしてその誰かに自分も愛されることを考えると、ほとんど気が遠くなってしまう。それは途方もない夢物語で、それが《物語》である以上、現実のなかではそうやすやすとお目にかかれないものなのだと、理解していた。

 


 倉橋由美子も例の手紙のなかでいっている。


 “わたしたちは、それまで愛と信じてきたものが二人の演技によって成り立つ虚構にすぎなかったように思いはじめたのでした。あなたは男の役を、わたしは女の役を、熱心に演じる。そしてその熱心さを愛と思い込む。……けれども、愛とはもともとそういうものなのかもしれません。一人の男と一人の女がある共通の方向をもった情熱、ことばとしぐさと想像力のすべてを傾けて魅惑しようとする情熱、それが愛なのかもしれません。もしそうだとすれば、わたしたちの愛の衰退は、わたしたちがこの虚構をささえるに足るエネルギーを喪失しはじめたとき、不可避となるでしょう。”

 

 誰かを《愛》するためには「特別な才能と機会に恵まれたひとだけの特権」をもちあわせていなければいけないと、わたしはやっぱりいまでも思う。恋人たちが恋の引力に敗れ、それすらも美しい詩や手紙や小説になるのは、その《引力》自体を生まれつきもっていない者のほうが大多数だからではないのかと、そんなふうに思ったりする。自分がどちらの種族であるのか、わたしはまだわたしという人間に対する判断を留保している。

 

 そして恋人との別離の手紙のことを考えるとき、わたしはいつかのクリスマスの日に、郵便ポストに入れられていた贈り主のさだかでない贈り物(なのだと思う)を思いだす。ヒロイヨミ社によって制作された「恋文」という名の、ある女性が愛したひとに宛てた(ということになっている)別れの手紙を。

 

 おおきな封筒におさめられた透ける紙。そこにピンクの文字で綴られた《恋文》。

 

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 それこそ誰かの手紙を盗み読みしている罪悪感を覚えながら、それでも目をとおさずにはいられないそこに綴られた美しい言葉を、わたしはあのクリスマスの日から遠く隔てられていまもなお、幾度も浴びている。きょうもまた。

 

 “誰かに激しく恋をしたなら、その感情にためらわずに身を委ね、ぐらぐらで立っていられないくらいに翻弄されればよいのです。だって、すべてのことは流れていって、いずれは終わってしまうのだから。来た波には乗らないと、生きている甲斐などない、女がすたるというものです。誰かにほんとうに恋することではじめて、この世のすべてがおそろしいくらい輝きだし、ありとあらゆる美しさがたじろぐほどに身に迫ってきて、あ、と気づいたときにはすでに遅く、もうのみこまれてしまっている。そのとき、自らの肉体が消えてしまうことなど、なにほどのものでもありません。恋することは生きることで、同時に、死ぬことでもあったのです。これはわたしが、自分のこころとからだ、すべてを使って知りえたことです。”

 

 「さよならの手紙」が美しいのは、その恋のいのちがもう、果てようとしているからだ。悲しみも憎しみも超越し、それが諦念に変わって、迷いから抜けだし、あとは時に身をゆだねるしかないと決めた達観のなかで、もうどうすることもできない恋の、愛に成熟することなく散った花の残滓を文字として刻みつけているからだ。

 

 だからそれは、読む者の胸をうつ。

 しかしそれを自分も綴ってみたいとは思わないわたしは、きっと芸術家の資格に欠いている。

 


 *『Cue』Vol.29「さようなら恋心」
  倉橋由美子『愛と結婚に関する六つの手紙』

  ヒロイヨミ社『恋文』