共犯者というかたちの愛

 

 

 倉橋由美子の名前を知ったころ、わたしは十代という若さを真夏の太陽のように抱き、その光の輝きを享受しながら、またもてあましてもいた。

 

 わたしにはおそらく情熱というものが欠けているのだと、自分では思っていた。こんな人間はきっと醒めているといわれてしまうに違いないと感じながら、なにに対しても火の灯ることのないおのれの心、というものを残念に思っていた。

 

 人や物や書物に恋をしても、それはどこか硝子越しの恋だった。「わたし」という存在の根本を、けっして変えることのないもの。だからそれは楽しくて心地よくて、危険のともなわないもの。

 

 わたしはきっと、この世に生を受けたその瞬間から枯れてしまった植物のような存在なのだと思っていた。どんな感情も鍵括弧のなかに封じてしまうわたしに、《恋》は心地よい雨のようにやさしく降りそそいでくれるけれど、しかしそれは生まれながらに枯渇しているわたしを蘇生させることはけっしてなく、わたしの硝子には罅さえ入ることはない。

 

 しかし『暗い旅』に出逢ったとき、その「硝子」が罅割れた。その「枯木」から芽が吹こうとしているのを感じた。

 

 わたしは熱病を患った。この書物のなかに生まれ変わりたいと、心から願った。この本のなかで息をする住人になりたいと。この世界にいられるのなら、猫でも林檎でも雪でも、なんだっていいから。

 

 それはその本は若さに特有の情熱が、わたしにもあったことを証明してくれた。

 

 婚約をしながら結婚はしないという掟を遵守することで、世界にふたりだけの共犯者であろうとした「あなた」と「かれ」。共犯者であることが、かれらにとってはただひとつの愛のあかしだった。ある日、愛の象徴であった「かれ」が失踪してしまう。なぜ? どうして? なんのために? 「あなた」は「かれ」をさがして旅に出る。鎌倉から京都へ。灰色の冬の街から街へと。そのどこにでも「かれ」は立っている。記憶という名の棺に入れられた過去の亡霊として。

 

 「あなた」を脅かすただひとりの存在、精神の一卵性双生児としての恋人をさがすための旅は、シャム双生児のようなふたりが別離し、切り離された半身によっておのれのなかに刻まれた甘美な疵を抱えながら、いかにしてたったひとりで生きてゆくのかということを綴った、通過儀礼の物語でもあったのだ。

 

 この物語を読み終えたとき、自分はこんな《愛》には巡りあえないかもしれないというかなしい予感があった。けれどもそのかわりに、わたしはいつか小説を書くだろうと思った。決心したのではなく、思ったのだ。それまでそんなことを考えたこともなかったのに、こんな小説を綴りたいと、切に願った。それは誰のために書くのでもなく、ただ自分だけのために。この世界に「失踪」してしまいたいと自分自身で祈らずにはいられないような魅惑的な世界を文字列によって築きあげること。

 

 それから永いあいだ倉橋由美子書物たちは、わたしの精神の薬となってくれた。毒薬みたいな効果をもつそれはわたしの思春期に必要なものだった。そんな時代はとうの昔のことなのに、わたしにはまだこの「薬」が必要で、きっと生きているかぎり、いつまでもそうなのだろうと確信している。

 


 *『倉橋由美子全作品〈3〉』より「暗い旅」 新潮社
  2017年3月現在、河出文庫から同名のものが復刊されています。

 

 

暗い旅 (河出文庫)

暗い旅 (河出文庫)