流星になりたいとわたしがいえば

 

 

 「流星。冷たくとどまる静物ではなく、激しく燃えて、力の限りふりしぼり、朽ちてゆく。自由になりたければ、儚く果てると知りつつも、流星となって地へおちるしかないのかもしれません。流星はきっと愛するひとのもとへゆけるのでしょう。流星になるという行為は、永遠へ向かう自殺。生きるために自らを殺し、アフロディーテの髪のように金色に燃える生命を手に入れる。月のように優しく清純で、流星のように情熱的。その二面性、いえ、多面性こそまるで紫陽花ですね。」

 

 郵便ポストに舞い降りた、柘榴のあの子がわたしに宛ててくれたお手紙に、そんなことが書かれてあった。わたしはそこに綴られた言葉の美しさに感激してしまって、幾度も繰り返し目をとおしたあと手帖にも書きこみ、それから時間が経ったいまでも毎日のように眺めている。佳い手紙とは本質的に詩だというようなことをいったりするけれど、彼女がわたしのために詩を捧げてくれたような、そんな気持ちになった。

 

 彼女とこんな話をしたことを覚えている。

 

 

 「あなたという人間にいろんな側面があるように、わたしだってそうなのよ。いろんな顔があるの。紫陽花のような女だといわれるわ。紫陽花や、昨日の誠、今日の嘘。きのうまでほんとうだったことがきょううそになってしまっても、それは誰にも責められることではないわ。生きているということよ。生きている以上、心は移ろうものだわ。

 移ろうものだから、ひとは永遠を夢みるわね。でも移ろうからといって永遠がどこにもないわけではないの。この一瞬こそが永遠なのよ。過去でも未来でもなく、《いま》こそが、永遠。いまがずっとつづいてほしいと願いことが、永遠だもの。だから永遠とは、いま自分にあるエネルギーをいかに持続させるかということなのだと思うの。それは恋であれなんであれね。

 たとえば恋にかぎっていえば、それは自分の言葉と仕草と想像力のすべてを賭して相手を魅惑するための戦いのようなものだと思うの。もちろん、それにはエネルギーがいるわ。そして相手のために自分のエネルギーをつかってもかまわないと思えることが恋ならば、そのエネルギーを喪失したとき、恋の終わりは不可避になる。永遠におなじ相手に恋をしていたいと思うなら、そのエネルギーを自分のなかでどう自足させ持続させるかということだとわたしは感じるのよ。

 

 心が吸い寄せられてしまうこと、磁石のように視線で追いかけてしまうこと。理由なんてない。そして理由なんてないからこそ、それはときにひどく苦しい。

 恋をしたとき、誰もが思うのではないかしら。流星にでもならないかぎりつかまえられないような、自分だけの周期を軸として運行しているひとにむかって《落ちて》しまったと。だからわたしは流星になりたいと祈るの。美しく燃えたいと希うの。それが死の顎にむかって疾走してゆくことだったとしても。」

 

 

 このように暗号めいた言葉でしか胸の内を打ち明けられないのがわたしの困ったところなのだけれども、彼女はわたしのなかになんらかの痛ましさを見つけ(きっと見つけたはずです)、それを抱擁してくれるように美しい言葉で「返歌」をくれた。その心がとても嬉しかったから。

 

 

 

 (ある少女からの手紙、1)