アレキサンドリアの想い出

 

 

 もっとも愛する書物の題名を教えてください。

 そんな問いかけに対するわたしの答えは、十七歳の夏から変化することはない。

 

 「ロレンス・ダレルの『アレキサンドリア四重奏』です」

 

 あの夏の暑さを、わたしは忘れることができない。

 世界中の熱気に締めつけられているような、光の粒子に目が眩むような、そんな日々がつづく長い休暇のなかで、わたしはひと夏をかけてこの物語を読み終えたのだった。『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーブ』『クレア』という、四冊からなる書物を。

 

 一冊読むごとに真実が万華鏡のように変化し、「真実」という言葉の意味を嘲笑いながら、あとには肉体を削ぎ落とされた白骨のような「事実」だけが残されるような緻密に繊細に造りこまれたその物語を読みながら、わたしは地中海を夢見た。頭が幾重にも夢で繃帯されたみたいに、その年の夏、この作品のことを思いだしてはぼんやりしていた。


 「女に対してすることは三つしかないのよ」
 そうクレアはある時言った。
 「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」

 


 物語のなかに登場したそんな言葉がわたしの胸に巣をつくり、いまでも口のなかで唱えられる呪文となっている。


 図書館の書架から借りてきた本だったけれど、すぐに自分でも買い求めた。
 そのときにはまだ新訳は出版されていなかったから、古書店を渡り歩いた。どうしてもモダンクラシックスシリーズの、表紙に林檎と蛇の黄金の刻印が捺されたその四冊の書物を、自分の本棚にならべたかった。


 わたしは恋をしたようだった。

 

 この物語に、この文体に、アレキサンドリアに。

 

 翻訳の文体に惚れこむというのは勘違いの片思いのようなものなのかもしれない。けれどもその片恋が現在に至るまでつづいていることを思うと、わたしはけっして相手を虚像に祀りあげて恋をしたのではないと断言したい気持ちになる。

 

 わたしはいまでも恋をしている。誰でもない、あの夏の幻の都市に。

 

 

 

 *ロレンス・ダレルアレキサンドリア四重奏』 河出書房新社

 

 

  余談ですが、わたしは旧訳で読んだので、どうしてもアレ「ク」サンドリアではなく、アレ「キ」サンドリアといいたいのです。

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

 

 

 

 

アレクサンドリア四重奏 2 バルタザール

アレクサンドリア四重奏 2 バルタザール

 

 

 

アレクサンドリア四重奏 3 マウントオリーブ

アレクサンドリア四重奏 3 マウントオリーブ

 

 

 

アレクサンドリア四重奏 4 クレア

アレクサンドリア四重奏 4 クレア