きみはSSPLだ

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 「どうせ君の説明は聞いてもわかりやしない。何しろまりちゃんはSSPLだからね」
 「何、そのSSPLって」
 「Super sophisticated Ladyのこと。ぼくが勝手に作った略語だ。まりちゃん専用にとってあるんだ」



 これは倉橋由美子の『シュンポシオン』の作中作のなかの少年と少女の会話です。

 素敵な大人の女性になったかつての少女がおのれの過去を物語として綴り、恋した男にだけ披露してみせた小説の一場面です。

 

 ミルフィーユの断層みたいに甘く美しく、そして複雑な少女のころの自身の心を男がそこに発見し、自分、という女にそなわった美質をあらためて認めてもらうために捧げたラヴレターのようなその小説は、巫女が神さまのために舞う神楽みたいな性質をおびています。

 

 つまり、自分にとっては「神さま」である男の心を射とめるために、「巫女」はお祈りするように言葉を紙のうえに刻んでゆくのです。うつくしい蜘蛛が繊細な刺繡をあむようにおのれの巣をつくり、そのなかに愛した蝶を閉じこめてしまいたいと願うみたいに、文字をあんでゆく。

 

 そうして「失われた時」の石筍のような記憶の塔から、彼女の《コンブレ》が姿をあらわす。
 ケーキの地層みたいに儚い、蜜の味のする過去が。


 女はその「過去」のなかで、「まり子」という仮の名前で存在している。そのまり子と、彼女のおない年のいとこである浩の関係を軸に小説は展開し、そしてその「関係」とはまり子によれば、"愛に近い関心"を抱く相手といいあらわされている。

 

 小説を読んだ「神さま」である男、つまりは彼女の現在の恋人が、「誰でも女にはとっておきのいとこがいる」と、浩のことをこんなふうに評します。


"幼馴染で、恋人のようで、きょうだいのようで、しかしそのどれでもない永遠の存在で、しまい忘れた預金通帳の残高みたいにいつまでに記憶のなかに残っていて年をとらない"

 

 わたしにはこの意味がとてもよく理解できるように思いました。

 

 ジェロームとアリサではないけれど、いとこに限らず、誰でも女にはそういう存在がいるのではないかしら、とわたしは感じます。


 小学生のころ、ずっと年上の従兄に恋に似た興味のようなものを抱いていたことがありました。その甘い秘密を、わたしの卵の殻のような頭のなかで守り、けっして外には洩らさないことが、わたしをただの子どもから、ひとりの小娘にしたのです。

 

 とても離れたところに住み、夏にしか会えず、会ってもほとんど口をきけない従兄との、この遠すぎる磁極から受ける精神の歪みを測ることが、わたしの愉しみでした。この不思議な回路を切断したときわたしの「青春」がはじまったのだとすれば、あれはわたしにとって「初恋」のまえに訪れる予兆のようなものだったのかもしれない。さわやかな感傷を残し、深い傷は残さずに去ってゆくものが、その「予兆」だとすれば。わたしが《恋》をしていたのだとしたら、それはたぶん夏という季節に対してだったのかもしれなくて、そしてわたしの想い出のなかにある夏は、すべて儚い夢か幻のようなものなのかもしれません。

 

 「まり子」として回想される少女の過去にも、おそらくおなじことがいえます。

 

 まり子にとっては浩こそが「とっておきのいとこ」であり、冒頭のせりふは、そのまり子と浩の会話なのです。SSPLだとまり子に告げた少年こそ、彼女のジェローム、彼女の「愛に近い関心」の相手であった浩でした。

 

 SSPL。Super sophisticated Ladyの略。つまり、とても洗練された教養のある貴婦人、とでも訳せばいいのでしょうか。貴婦人。一角獣が心をゆだねるただひとりの女性。そんなことをいとこの美しい少年にいわれた少女の気持ちというのは、どんなものでしょう。


 

 「私って、Lですか。ギャルのGじゃなくて」
 「君のように高級な自意識を備えた御婦人はギャルとは言えない」
 「嬉しいわ」

 


 これがまり子の返事です。見事な貴婦人。

 わたしは十代のころにこの書物を読み、まり子に少しも似ていない自分のことを考えるにつけ、内臓を抜きとられるような失望を味わったものです。

 

 これは喪われた過去の物語です。

 

 だからまり子と浩のあいだになにも起こらないということは、あらかじめ現在によって定められています。そして実らなかった恋だからこそ、いつまでも忘れがたい記憶の地層となる。

 

 恋が散らないで果実に成長してしまったら、その熟しきっていない青い実が腐敗するのを待つか、そんなことには耐えきれずに自分からすすんで地面に落下するしかなさそうで、小鳥のように啄んでしまったら最後、口のなかを切ってしまうような痛みをもっている。

 「初恋」とは、そういうものだとわたしは勝手に感じています。


 実らなかった恋だけが美しく、それはいつまでも彼女を守る幸福な記憶となり、淡い恋の相手はおのれを「貴婦人」としてくれる一角獣として、過去からじっと眼差しを彼女にあてている。その「目」に見つめられているかぎり、SSPLであらればならない。かれを幻滅させる現在も未来も排除してみせるという「誇り」をくれる。

 

 一角獣。わたしにとっても、あの従兄はそういう存在なのかもしれない。わたしの「おまもり」。あのひとに恥じないわたしでありたいという、そんな尊い祈りの結晶のようなもの。儚い幻でありながら、いつもそこに「永遠」の夏を見ることのできる相手。


 まり子のような少女にはなれなかったわたしだけれど、だからせめて、SSPLになれるように、自分に願いつづけたいと感じる所存です。

 

 

 

 *倉橋由美子『シュンポシオン』 福武書店

 

 

 

シュンポシオン

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シュンポシオン (新潮文庫)

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  Kindle版もあるようです。

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