神さまと呼んでもいいですか

f:id:tukinoyume:20170830120222j:plain

 


 女は誰でも、自分だけの神さまを探しているのかもしれない。
 その「神」に仕える巫女となることを、夢見ているのかもしれない。
 
 矢川澄子のことは、子どものころから知っていた。
 わたしの幼少時代を彩った絵本のほとんどに、翻訳者として彼女の名前が刻まれていたのだから。

 

 しかし名前は知っていても、彼女自身のことは知らなかった。

 そうしてなにも知らないままに彼女の随筆集である『反少女の灰皿』を読んだとき、わたしは呆然とした。あまりにも苦しい読書だった。肉体という器に閉じこめられて自由に息もできないひとの独白を読んでいるような気がした。「この肉体を脱ぎ捨ててしまいたいの」と彼女がいっているように、わたしには感じられた。

 

 彼女が自死したというニュースを聞いたのは、そんなときだった。

 

 わたしは彼女の小説を、弔いの気持ちで手にとった。『兎とよばれた女』。
 その作品に宿った言霊を浴びることは、随筆のときもそうだったように、あまりにも苦しいことだった。だが惹かれずにはいられなかった。彼女の言葉に。

 

 それは神さまとひとりの女の話だった。

 

 愛ゆえに男という「神」のために仕え従い崇めるための女となった、巫女の物語。

 

 女の心は「愛」という質量を隙間なく閉じこめて、からっぽだった。いつでも神の言葉を迎えるために、そうであらねばいけなかったから。望まれているのは人形となること。男の「理想」のとおりに飾りたてられた女となること。

 

 だから神が飛べとひとこと告げたなら、月にまでも羽ばたいてゆけるはずだった。それが「愛」だと信じていたから。

 

 けれどもあるとき、「巫女」は自分がそんな虚構を支えるに足るエネルギーを喪ったことに気づいた。ひどく疲れていたのだ。崇められる者と仕える者。そんな関係の終焉は不可避だった。そして彼女はほんとうに、月へと飛翔してしまった。きっと「神」ではなく、彼女自身の意志で。

 

 わたしは小説と現実を混同している。
 矢川澄子が創作した物語と彼女の生涯とが、あまりにも重なりすぎるから。

 

 女は自分だけの神さまを求めている。

 その「神」に奇跡的に出逢うことのできた女は巫女になる。あなたの告げるままに。あなたの命じるままに。しかしある日突然目覚めはやってくる。「神」だと信じた者は、ただの人間の男であったことに気づく。女は神殿から男を追いだし、かつて神だった自分のなかの男の面影にだけ、あのふたつの母音を捧げる。

 

 神さまなんて、どこにもいない。
 巫女でいつづけられる女もまた、存在しないように。

 

 わたしは漠然と思うのだ。月には兎がいるとこの国では語り継がれている。そしてかぐや姫自死だった、月に還るとはそういうことだと捉える本書は、「兎」である女が「月」に還りたいと密かに訴えていた、そういう暗号なのではないかと。

 

 矢川澄子は「月に還って」しまったひと。

 

 

 

 

 *矢川澄子『兎とよばれた女』 筑摩書房

 

 

 

兎とよばれた女 (ちくま文庫)

兎とよばれた女 (ちくま文庫)