聖女になるしか、みちはない

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 少女が「女」になることなく、儚くいのちを散らすこと。蕾のまま迎えた「死」を、満開の花よりもうつくしいもののように魅せること。それを「オフィーリアの系譜」と呼んだりするらしい。

 

 少女がいずれは葬られる生き物だからこそ美しい、という理論は理解できる。

 それが現実の「死」を意味しているのではなくても、どんな少女もいつかは時間によって殺される。

 

 だからわたしたちは、一瞬のなかに宿った彼女たちのあえかな羽ばたきに目を奪われる。そしてその一瞬がいつまでもきらきらと輝く永遠になることを望むのだ。

 

 しかし「永遠」という言葉ほど残酷なものはない。

 

 それは少女という亡骸を美しい死として埋葬し、彼女たちをガラスの棺のなかの標本にしてしまうことなのだから。

 

 そうであるならば、標本になんてなりたくないと訴える少女がいても不思議ではないと、わたしは思うのだ。

 

 多和田葉子の『聖女伝説』には、「美しい死」を拒んだ少女の物語が綴られている。

 

 母にはなりたくない。けれども少女にも戻れない。それならどうすればいいのか。聖女になるしか、みちはない。

 

 女は女に生まれるのではなく、女になるのだ。あの無情な宣告。

 それが生まれた意味であり、自分の性が命じる未来だとしても、「母」になることだけは、どうあっても回避したい。

 

 

 だが決意もむなしく肉体は望まぬかたちに変化し、少女と呼ばれるひとときを跨いで、「女」になろうとしている。

 

 何者でもない限られた時間の終わりに、おのれにつけられた符号にしたがって、誰もが「少女」を殺めてゆく。そんな無数の「死体」のひとつとして埋没されてしまうこと。それを拒んで彼女は落下する。突きつけられる地面という現実をまえに、迫りくる「死」を回避することを祈り、時間をとめた。

 

 それが一時的な停止に過ぎなくても。

 

 なにも選択しないことによって「聖女」になることを選択した、これは、少女の伝説。

 

 研ぎ澄まされた文章、驚異的な感性、不穏の物語。もしもこの書物に十四歳のときに出逢っていたら、わたしの精神は書物によって喰い破られてしまったに違いないと感じるほどに、生と性と聖が描かれたこの物語に、いまをもって切実さを感じてしまう。

 

 少女は言語でしか世界と戦えない。

 それは護身用のナイフみたいに大切なものだ。たぶん、わたしにとっても。

 


 *多和田葉子『聖女伝説』 太田出版
  2017年8月現在、筑摩書房から文庫版が出版されています。

 

 

聖女伝説

聖女伝説

 

 

 

聖女伝説 (ちくま文庫)

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