源氏物語の香り

 

 

 わたしは《もしも》という想像の翼を羽ばたかせて、そのなかに溺れてゆく「ひとり遊び」を好む。

 

 たとえば香水。

 

 素晴らしい書物や映画に出逢ったとき、そのなかに描かれている魅力的な登場人物、とりわけ美しい女性や少女は、どんなフレグランスを愛用しているのだろうか、とわたしは物語の進行とは無関係なところで、勝手に想像してみる。

 

 わたしの頭に巣をつくっている《夢》のなかで、『暗い旅』のあなたはChristian Diorのジャドールを、『ヴァージン・スーサイズ』のラックスは、CACHARELのアナイス・アナイスの香りを纏っていることに、勝手になっている。

 


 そんなふうに想像してみる。

 

 《もしも》源氏物語の女君たちが現代に生きていたら、どんな香水を好むだろうか、と。


 桐壺更衣はレールデュタン。

 わたしにとってこの香りは、《母》の香りなのです。母がわたしの幼いころに纏っていたこともあるけれど、それよりももっと観念的な《母》。誰もが思い描く記憶のなかの美しい母親。生母である桐壺の顔も声も覚えていなかった源氏だけれど、きっとその香りだけは無意識のうちにかれのなかに刻みつけられていたはずだ。永遠の女を探して女君たちのあいだを彷徨う源氏の心には、忘れがたく内包された《母》の香りがあったのではないかと思う。


 藤壺の宮は1000のミル。

 花の息づかいから立ちのぼる《本物》の女性。この香りを自由に纏って自分のものにしてしまえるひとが、けっして《贋物》のはずはない。聡明で高尚。それなのに可愛らしいあなた。誰もがあなたの虜です。源氏の永遠の「恋人」たるひとにふさわしい香り。肉体と精神の黄金比が符合した女にだけ愛することのゆるされる、《真実》の香り。目に見えないものこそを美しくありたいと望むひとの香り。


 六条御息所はサムサラ。

 青い夜、蒼い月。彼女のこぼすため息が、この香りを纏う。戯れだった恋は、いつしか苦悩の愛に変わっていた。自己を制御できないほどの炎に。いのちを燃やす流星のように、愛は愛の死へと一直線に疾走してゆく。そう、これは星の香り。生涯でただひとつの二文字の母音の香り。しかしどんな愛も宇宙のまえでは塵のようなものかもしれず、男と女のあいだに《永遠》などというものはないのだ。そう悟ったとき、彼女は源氏のまえから去り、男のなかに消えない爪痕をのこす。これは星の香り。もう消失してしまったはずの輝きが《愛》となって、いまでも空に瞬いている。男の胸のともしびに。 


 夕顔はロードゥイッセイ。

 彼女は雄弁な沈黙のなかに、香りのもつ無言の伝言を最低限の言葉でつたえてくる。このフレグランスのボトルのような女性。折れそうに華奢な肢体、細い手足。まるで壊れてしまいそうな幻の存在。守ってあげたいと思って一歩彼女に近づく。けれども彼女のもつ果てしない包容に柔らかく抱擁され、気がつけば支えられているのは相手のほう。純粋な幼さ、妖精のよう。企みなく惑わす妖艶さ。ないようであり、あるようでない、オゾンのような《無》のなかに存在する彼女。源氏がもっとも彼女を愛し、手を伸ばしたとき、彼女は微笑みながら消えてゆく。この香りのように。


 朧月夜はザ・ワン

 あなたと《ひとつ》になりたいだけ。むつかしいことは、なにも考えないで。いまこのとき、わたしだけを視て。そんな秘めた願いを臆することなく行動に移し、男に自分のなにもかもをゆだねてしまう彼女。どうなったってかまわないのよ。いまここにあなたがいて、わたしがいて、それ以上のなにを求めるというの? ふたりだけの海に溶けあってしまいましょう。明日のことなんて、なにもわからない。移ろいやすいのが人の心だから。この世はアンバランス。あなたがいつまでわたしを愛してくれるか、わからない。でもおなじことはわたしにだっていえるのよ。いつまであなたを愛するか、わからない。すべての矛盾をこの香りに包んでもらって、いまだけは愛しあう恋人たちでいましょう。孤高のふたりで。


 女三宮はアム コキーヌ。

 これは《少女》の香り。万華鏡のような、彼女の心。ひたすらに無垢。けれども、その底に暗黒が口を開けている。そんなことは露とも知らず、男たちは悪戯にくるくる七変化する彼女にふりまわされる。甘えたがりで気まぐれ。どちらがほんとうのあなたなの? 彼女はいう。どちらもほんとうのわたしよ。わたしの心はわたしだけのもの。だから誰にもあげないわ。彼女は《女》になることを拒絶した、永遠の少女


 紫の上はJOY。

 彼女ほど「可愛い女」はいない。ひたすらに男を信じ、己の幸福も不幸も、全身で受け入れた。自分を抱きしめたくなるような歓喜も、身を切られるような悲しみも味わった。すべてひとりの男によって。彼女はどんな境遇のときにも、自分、というものを律しつづけた。男の望みにかなう自分でありつづけようとした。昼は聖なるひと、夜は妖しなるひと。完璧な女、優雅で洗練されたあなた。欠けることのない円のように充たされているように見えたひとの憂鬱と悲嘆。だからこそこの聖なる妖しの香りを身に纏って、人生のすべてを受け入れる。おのれのすべてを受け入れる。紫の上はそんな女性だったのではないかと思う。

 

 

 以上、わたしのお得意の妄想遊戯でした。

 

 

 (2016.9.25)