少年(Kに宛てたいつかの手紙の断片から、7)

 

 

 

 

 K。あなたはわたしのKだけど、わたしにとって「K」の称号をもつ男のひとは、あなただけではないというお話は、まえにもしました。

 

 「K」という記号はわたしのなかで特別の響きをもっていて、男のひとのなかにある意味を発見したとき、わたしはそのひとを「K」であらわしたくなってしまう、とそういう話を。

  カフカのK、ヨーゼフ・KのK、梶井基次郎のK、倉橋由美子のK、そしてあなたのおっしゃるとおり、夏目漱石のKもいましたね。あげたらきりがないし、そこに答えはないのですが、あえて共通点を見つけるならば、みな、自己破滅型の男性ということがあげられるかもしれません。

 

 ところで、あなたの中学時代のエピソード、興味深くうかがいました。

 思いきり走って、飛び跳ねて、地球を蹴りつけて、空にむかって羽ばたきたいと願った、そんな「正しい」少年のひとりであったあなたは、それは強迫観念によって生まれた「正しさ」なのだと、そうおっしゃいましたね。

 

 少年とはこうであらねばならないという観念が、自分に少年という存在を演じさせたのだと。

  そんなお話を聞きながら、わたしはひとりの少年を思い出しました。遠い昔のクラスメイトを。わたしの記憶のページをめくったとき、突如出現する過去のなかに棲むあの「K」のことを。

 

 あのころ、わたしはあなたのいうところの「どこにでもいそうで世界にたったひとりしかいない、ふつうの男の子」に憧れていたのです。

  その少年もあなたとおなじ運動部(かれはあなたとは違ってバスケ部でしたけれど)で、授業ではふざけたことをいって先生を怒らせ、休み時間はなにが面白いのか誰よりも大きな声で笑い、悩みなんてなさそうにいつも廊下やグラウンドを走っていました。

  男の子たちのなかにはかれを好きなひとと嫌いなひとがいて、女の子たちはみんなでいるときはかれの悪口をいうのに、密かに片思いしている子もいるようで、でもかれは自分を嫌いな男の子のことも、自分に片思いしている女の子のことも、気づいていないようでした。

 

 どうしてそうなったのか、その男の子をまじえて男女数人でテーマパークに行くことになったとき、かれの家に集まって、かれいわく「物置よりも狭い」かれの部屋で当日の計画を決めることになったのですが、男の子たちは集結した途端テレビゲームざんまいで、かれはコントローラーを両手につかんだまま、勝手に冷蔵庫を開けてみんなに飲み物を出してほしいなどと、わたしにむかって図々しいことをいいました。

 わたしがしかたなくキッチンにむかうと、かれはなぜだかあとからついてきて、わたしがグラスに炭酸水を注いでいるのを見ていたかと思えば、最後のグラスにおもむろに父親秘蔵の日本酒を注ぎだし、このグラスが誰にあたるかロシアンルーレットをしよう、といいながら楽しそうに笑うのを見たとき、わたしは心の底から自分が男の子だったらこのひとのようになりたかった、と思ったのです。

 

 あとにもさきにもそんなことを思ったのはそれかぎりだけれど、あの少年もあなたとおなじような強迫観念のもと、やっぱり自分は「正しい」少年でなければいけないと、そうありたいという意識から、あの奔放さを、あの自由さを、あの闊達さを演じていたのでしょうか。世界という敵をまえに、精一杯強がって、一生懸命見栄をはっていたのでしょうか。

 

 そう思うと、あの少年Kは記憶のなかでいっそう眩しく、燃える流星のように青白い炎の痕を、たしかにわたしのなかに残しているのを感じるのです。

 

 K、あの少年は、もしかしたらあなただったのかもしれませんね。

 

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、7)

 

 

畏怖(Kに宛てたいつかの手紙の断片から、6)

 

 

 

 六条御息所は、男のひとにとって永遠の畏怖なのだと、わたしは思っています。

  男にとって、夕顔は恋人、藤壺は憧憬、紫の上は理想、とするとき、それぞれの女君にはかならず「永遠の」という言葉がつくならば、六条御息所は永遠の畏怖。

 

 K、あなたのなかにも六条御息所がいたんですね。

 あなたを愛し、愛するあまりに、あなたを苦しめたひと。
 おなじ愛が返ってこなかったからといって、生霊になってしまったひと。

 

 あなたはやさしいひとだから、自分の恋を死滅させたそのひとを、きっと髪のひと筋ほども恨んではいないでしょう。むしろ、そこまで彼女の気持ちを追いつめてしまったなにかがおのれにあるのかもしれないと、そんな責任のようなものを自分のなかに見ているのかもしれません。

 

 ところであなたは、六条御息所はどうして生霊になったのだと思いますか?

 愛執のため?
 嫉妬のため? 

 おそらく、そうでしょう。でもそれにつけ足すものがあるとすれば、自尊心のため、とわたしなら答えます。

 

 彼女は誇り高いひとなので、もちろん源氏が自分のほかに通っている女たちについて探ってみようだなんて、心のなかで考えることすらしないひとです。自分に対する源氏の愛情が冷めかかっていることに気づきながら、すがってみせようだなんて、思いもおよばないひと。

 

  彼女はいつも毅然として、正しくて、隙を見せてはならないのです。

 

 なぜなら前の東宮妃だという身分に加えて、源氏より七歳も年上の自立した女なのだから。だからいくら美しくて教養がある帝の息子であろうと、まだ若くて世間を知らないような男に、自分を見失うほど溺れていることを男にはもちろん、ほかの誰にも知られてはならない。

 

 どこまでも抑えたその自尊心が生霊を呼んだのだと、わたしは感じます。

 

 「あまりにも自分をも他人をも隙間なく見つめすぎるひとで、朝晩をともにし、永いあいだいっしょにいれば、いずれこちらが見劣されるだろうと思った」

  源氏はのちに若い日の愛人であった六条御息所という女性を振り返って、思い出ぐさにこんなことをいいますね。

  彼女はそういうひとです。

 

 そしてあなたのために生霊になってしまったひとも、そんな女性だったというお話でした。

 

 つまり、つきあいを重ねるほどに重たくなるひと。そしてその重さには、たまたま道連れになって背負った女が、次第に磐石のようになり、そのまま身動きを封じられてしまうような、その女の引力圏内から一歩も外には出て行けなくなってしまうような、そんな強い意志がこめられた恐ろしさがありますね。

 

 その恐ろしさに気づいたとき、多くの男が女の重さから逃れたいと思ってしまうのは、あたりまえのこと。しかたのないこと。

 

 女のほうでもそのことは、よくよくわかっているのです。

 

 だからなんとかその重さをおのれのなかに閉じこめようとして、自分自身がそれに押しつぶされてしまうの。自らの重さのなかで身をよじるように苦しみ、悲しんで、そのことで彼女のなかのなにかが傷つき、愛が残した悪質の化膿菌から、ジェラシーの膿がでて、それがお化けになってしまうの。この「なにか」とはもちろん、プライドのことね。
 
 あなたはあなたの六条御息所を、ちっとも恨んではいないとわたしは考えているけれど、彼女にも彼女の苦しみと悲しみがあったのだと思うのです。わかってあげてね、とはいわないけれど、そんな愛し方もあるのだということを、覚えていてあげてください。

 

 愛にもさまざまな種類があって、儚さや憧れや慈しみだけでなく、畏れもその一種であるということを、どうか記憶に刻んでください。だってあなたのまえには、きっとこれからも新しい六条御息所が現れるはずだから。

 

 源氏物語とはもしかして、男にとってはこれ以上ないくらいの教訓が記されている古典なのではないかと、あなたはいいましたね。

 

 そのとおりです。

 あなたがいままで出逢った女、これから出逢う女は、すべてあの物語のなかに登場しているはずです。

 

 ね、そうでしょう? 源氏の君?

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、6)

 

 

 

夕顔(Kに宛てたいつかの手紙の断片から、5)

 

 

 K、あなたの過去の恋人の話を聞くのが好きです。

 そのお話に耳を澄ませているとね、なんだか不思議な音が聴こえてくるの。なんの音だろうと考えてみたのだけれど、それはたぶん、あなたのなかに広がる海の音ね。記憶の潮の音。それが満ち、そして引いてゆくのが、わたしには聴こえるのです。その音とともに、あなたの海辺の景色が目に浮かんでくる。

 たとえば女たちがあなたのなかに置き忘れていった手紙を入れた小瓶や、ひとつの恋の墓標を象徴するように砂のなかに突き刺さった白い骨、といったものがあなたの海に散らばっているさまが、わたしには見えるような気がするのです。

 あなたもきっと女のひととお別れするとき、彼女たちのなかにそういう忘れ物をしているはずね。

 わたしはね、あなたというひとはおそらく、自分の骨を一本、気前よくあげてしまうのではないかと思うの。これをこの恋の記念にもらってほしい。墓石にしてもいいし、化石にしてもいい。もちろん棄ててもかまわないよといいながら、女が肋骨がほしいといえばそれを、肩甲骨がほしいといえばそれを、頭蓋骨がほしいといわれればそれさえも、あなたは贈ってしまうひとのように思われて、そしていつの日か、あなたはあなたのすべてを過去に捧げて、ばらばらになってしまうのではないかと、わたしはそれがちょっぴり不安です。

 

 いつか、あなたのとても若い日の恋人に、わたしは「夕顔」と名づけたことがありました。

 源氏物語の夕顔。

 お互いの素性もわからず、だから名前も知らずに逢瀬をかわした源氏と夕顔の、あの刹那的な儚い恋。あなたもそんな恋をしたことがあるのだと、打ち明けてくれましたね。そしてあの物語とおなじような破局を迎えたのだと、教えてくれました。

 あの夕顔に、あなたはどんな骨を渡して、その恋を終わらせたのでしょうか。どんなふうにあなたのなかで、過去の亡霊となっていったのでしょうか。

 彼女は夕顔と違って死ぬことはなかったけれど、その恋がいのちを落としたとき、自分のなかで死んでしまったのだと。いまでも想い出すのは、彼女の瞳や声や髪や癖などではなくて、夕暮れの時間に彼女と待ちあわせをしたこと。待ちながら流れてゆく人波を見ていたこと。そうしているうちに彼女がどんな顔をしていたのか思いだせなくなって、もしかしたら自分は、自分の想像が生みだした女、だからこの現実のどこにも存在しない幻の女を待っているのではないかと、ふとそんな気持ちになったときのあの黄昏が、あるとき突然からだのなかに甦るのだと、そんなお話を聞きながら、わたしはなぜだかあなたの過去に、自分の郷愁を発見したような気分になりました。

 あなたはなんでも忘れてしまうひと。恋した女の顔さえも。

 でもあなた自身も覚えていない記憶の棺のなかに、あなたは彼女たちが自分に捧げてくれたもの、捧げてくれなかったもののすべてを保管しているのです。きっと。その愛の残骸が、あなたの海にひろがっている。その場所がいつか荒れ果ててしまうことがありませんようにと、わたしは祈っているのです。ほんとうに、心から。

 

 

 (Kに宛てたいつかの手紙の断片から、5)